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『「よそさん」にも教えたい 京都のお作法』
市田ひろみ著
NHK出版(生活人新書051)2002年
『よそさんは京都のことを勘違いしたはる』
山中恵美子著
学習研究社(2003年)
両方ともつまらない本である。なんでそんなこと、活字にするのかと思う。こういうことは言わへんほうが、書かへんほうが奥ゆかしいのに。でもきっとそう思うのは私が京都の人間だからなのだろう。「よそさん」にしたら物珍しい内容なのかも。「よそさん」にとってはじゅうぶん面白いのかも。「よそさん」にしたら非常識な話なのかも。
まずは「京都のお作法」のほうから。
《作法というのは、人に迷惑をかけない、人に不快感を与えないという無言のルールだ。》(2ページ)
《三方が山に囲まれた狭い京都盆地。代々京都で暮らしてきた人達とのつきあい。
そこには人間関係のバランスをこわさないという不文律がある。》(3ページ)
《お客が帰ろうとする時に、
「ゆっくりしていかはったらよろしいやないの。ぶぶ漬け(茶漬け)でもどうどす?」
「へえおおきに、いや、また、今度」
このやりとりは、言葉のアヤ。つまりほんの、おあいそなのだ。》(26ページ)
《京の会話は、重い意味を持たずに、あたりさわりなく運ぶ。「お茶漬けでも」とすすめられたら「おおきに、また、今度」と返すことで、お互い、貸し借りなしなのだ。
実際、掃除もできていないかもしれないし、ごはんもないかもしれない。
そこんとこは「へえ、今度また」でかわすのがおしゃれなのだ。》(27ページ)
《さて、京都の人は角の立つ物言いをしない。
「あの人嫌い」などとは絶対に言わない。
「あの人好きでない」と言うのだ。
同じことでも角が立たず、嫌いさ加減が薄くなる。それでいて、自分の考えははっきりと主張している。》(52-53ページ)
《だから、ほんまもんを見る目はきびしい。
さて、ほめ言葉にもいろいろあるが、京都人は微妙に使い分けている。
見終わったあと、「御立派どすなあ」「きれいどすなあ」は、満足というところ。
「何とも言えまへんなあ」「さすがですなあ」は、何と言っていいのかわからないくらいよかったということだろうか。
「よろしおすなあ」は感嘆。
京の人は、感動した時は多くを語らない。ただひと言「お見事」が最高のほめ言葉だろうか。
「まあまあですなあ」というと東京の人は平均点と思うらしいけど、実は大したことはないということだ。
「もうひとつですなあ」と言われたら、ひとつもよくないということだ。》(55-56ページ)
《言葉遣いひとつにしても、AもよろしおすけどBもよろしおすなあと言われると、聞いているほうはどっちが本音かよめない。だからよく、京都の人のお腹の中がよめないと言われる。
しかし、実はAもよろしおすけどBもよろしおすなあと言いながら、「ほんまもん」であるかどうかを見きわめているのだ。》(141-142ページ)
《「いちびったらあかん」
子供の頃、母からいちびったらあかんとよくたしなめられた。
これは「調子に乗ったらだめ」とか「まわりのこと考えんとひとり面白がる」ということだろうか。
いずれにしても、それ以上はしたらだめという、たしなめの言葉だ。軽々しくはしゃぐものではありませんよと、京都の親は我が子にブレーキをかけることを教えるのだ。》(145ページ)
続いて「勘違いしたはる」のほうから。
《今となっては言葉だけがひとり歩きしているような感さえある「お茶漬けでもどうどす」という言い回しは、祖母の口から何度か聞いたことがあります。
玄関先で話し込んだあとに食事の時間が近づいてきて、お客様に「お茶漬けでも……」というのは、「あんまり長居をしてもらったら、うちもそろそろ食事のしたくをせんとあきませんし」と言いたいところを、失礼にならないよう、間接的に暗示しているのです。