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そう言われたら、相手の方も「いや、もうそんな時間になってました? もう失礼します」と言うのがふつうだと思います。これをふつうだと思うところが京都的なのかもしれませんが……。》(139ページ)
《ちなみに、京都では「お茶漬け」「何もあらしまへん」と言っても本当にお茶漬けだけをお出しすることはありません。あくまでも言葉の綾なのです。》(140ページ)
《「京都の人は、言っていることと、思っていることが違う」ということをよくいわれますが、京都の言葉は、言っていることと思っていることとが違う、というより、もっと複雑な使い分けをしているのです。
どうおもわはってもかまへん(どう思われようとかまわない)と思いながら、押しつけがましくなく、通すべき意思は通す。特に京都人同士では、感情的になる一歩手前まで、言葉巧みなせめぎ合いが続くことがありますが、泥沼にめり込んでしまう前に、茶化したり、曖昧なことを言って、逃げるが勝ちと引いてしまいます。
一方、よそさんに対しては、そこまで行くまでの前の段階で、なんぼいうてもわからへん(いくら言ってもどうせわからない)とあきらめてしまうか、または、もうしょうがないなあ(仕方がないな)と寛大になってしまいます。》(143ページ)
《ほめられたり、ものをいただいたときにうれしい気持ちを表現する「おおきに」は、京都でもよそでも同じですが、誘われたときの「おおきに」はちょっとニュアンスと響きが違います。
つまり誘ったときに「おおきに」と言っても、相手は決して了解はしていないということです。誘ってくれたことに対する「おおきに」ではあっても、いつに行くとか、お断りするとかは言っていないのです。》(146ページ)
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京都の「おおきに」は状況によって、発音の仕方(というか力の入れ具合というか)で、「こんにちは」(毎度おおきに)「さようなら」(ほな、おおきに)「そりゃどうも」(そら、おおきに)「そうかしら」(へえ、おおきに)などの意味を含ませることができる。というより、「ありがとうございます」といった謝意はほとんどない(笑)といっていい。謝意を伝えるときは手を着いて畳すれすれにまで頭を下げて「ほんまに、ほんまにおおきに」といったりするのだろう。でも、そんなことをする京都人を見たことがない(笑)。
私は言葉遣いも荒いし、およそお行儀のいい人、には程遠い。生まれてこのかた世の中は自分を中心に回っているし回っていくと思っているし、世の人間はみな自分より賢くない人ばかりだと思っている。いつからこんなもの言いが流行り始めたか知らないが、嫌いな言葉に「上から目線」がある。なぜ嫌いかと言えば、それはまさしく私の普段の振る舞いを見事に言い当てているからに他ならない。「上から目線」で何が悪いのよ。ふん。私の仕事は制作の最下流に位置しているので、上流を見上げれば直のクライアントのそのまた顧客のそのまたお客さまのそのまた神様の……とえんえんとスポンサーのピラミッドである。私は直のクライアントにだけこびへつらっていればいいわけで、たいそう気楽だが、つかう言葉が「おおきに」だろうが「ありがとうございます」だろうがそこに謝意を込めたことなんかないのである(笑)。あたしが食えるのはクライアントの支払いがあるからだけど、クライアントはあたしが書かなかったらおまんまの食い上げなのである。いつもお世話になりましてありがとうございます、といいながら、よかったな今日もアタシが元気でアンタのために仕事できてさ、と思っているのである。それって、みんな、どこの人でも、そうじゃないの?(笑)