お茶の色って、あんな、そんな、こんな、色なのに茶色って何よ
2008-11-17


絵の具に「ちゃいろ」と書いてあるのだから、そのチューブから出てくる色が「ちゃいろ」なんだろう。子どもはそんなふうにして色とその名前を一致させて知識として積み上げていく。これってとっても危険なことだと思うんだけど、どう思う?
昔、民族学をかじっていたとき、アフリカのサバンナを駆ける民族がどのように色を認知しているかをフィールドワークした研究成果を聴いたことがある。彼ら彼女らは、美術の授業もなければ絵の具も色鉛筆も持たないが、どんな色についても何の色であるかをいうことができたという内容だった。
研究者は何百という色彩カードを彼らに見せ、これはなにいろ? と訊ねた。すると必ず、○○の色という答えが返ってきた。彼らは、すべての色に彼らなりの名前をつける、あるいはその色がどのような色かを説明することができた。たとえばこんなふうである。

○○という草の葉の裏の色
昨日しとめた獣のはらわたの色
△△という動物の皮の色
歯茎の色
足指の爪の色
指の腹の色
……

というぐあいである。
人は自分で見聞したことをもとにして、考えて、組み立てて、ある事柄を説明することができる。それは人間のもつ特権能力とでもいおうか。与えられた情報がなければ、持ち駒だけで何とかすることができる。
太陽の生み出す色。それは見る人によって、その色が映る瞳によって、感じられ方が異なるに違いない。けれど悲しいかな、それをどのようにうけとめ表現するか、という感性が研ぎ澄まされる前に、たった12色程度に集約された名前のついた色という貧しい情報を幼い脳は刷り込まれてしまう。そして、人間は知的生物であるがゆえに、文字情報を得たら最後それに支配されることをよしとするのだ。文字を読めるようになると他のいろいろなことが見えなくなるのだ、じつは。

ウチは上等なお茶は飲まないが、茶葉によって淹れたお茶の色に違いのあることを子どもにわかってもらおうと思って、昔から、番茶、麦茶、緑茶、紅茶、いろいろつくって見せてきた。それは、私自身の「ちゃいろ」という言葉への違和感からきている。お茶の色、というと渋めの緑色を思い浮かべるのに、絵の具には茶色と書いてある。でも、ウチの番茶はどっちかいうと「こげちゃいろ」のほうだぞ……。

brun という語を辞書で引くと「褐色」とある。この語は髪や眼の色、あるいは日焼けした肌の色の表現によく使われる。日本語としては「茶色」のほうがなじむし、想像し易いので、本書の邦訳タイトルが『茶色の朝』であることに異論はない。

ただ、私はもっと黒々した、鍋の底にこびりついてとれないお焦げのようなディープなブラウンを思いながら、「Matin brun」を読んだ。物の名前や言葉尻にやたらと「brun」をつけなくてはならなくなったというくだりでは、「バカいうなよ、くそっ」の代わりに「バカいうなよ、焦げっ」って感じかなあ、なんて笑いつつ。


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『焦げた朝』
フランク・パヴロフ

陽だまりにどてっと両脚を伸ばして、ぼくとシャルリーは、たがいのいうことに耳を傾けるでもなく、ただ思いついたことを口にしながら、会話にならない会話をしていた。コーヒーをちびちびすすりながら、過ぎゆく時間を見送るだけの、気持ちのいいひとときだ。シャルリーが愛犬を安楽死させたといったので、ぼくはいささか驚いたが、それもそうだろうと思った。犬ころが歳とってよぼよぼになるのは悲しいもんだし、それでも十五年も生きたんだから、いずれ死ぬってことは受け容れざるをえないもんだ。
「つまりさ、おれはやつを焦げ茶になんかしたくなかったんだよ」
「まあな、ラブラドールの色じゃないよな。それにしてもやつの病気は何だったんだい?」
「だからそうじゃねえって。焦げ茶の犬じゃないからってだけだよ」
「マジかよ、猫とおんなじってわけか?」
「ああ、おんなじだよ」

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