どうしてこんなことになってしまったんだろう、と考える時間は長いほどよい
2008-11-18


『ぬすまれた宝物』
ウィリアム・スタイグ作・挿画 金子メロン訳
評論社(1977年)


中耳炎の治療のため、娘を連れひっきりなしに通っていた耳鼻科には、なぜだかスタイグの絵本が多かった。小児科ではないので待合室の図書に絵本はさほど多くはなかったが、その多くない絵本の中にスタイグの絵本が何冊もあった。私はスタイグという作家に無縁の人生だったのだが、そこでめでたくファーストコンタクトとあいなったのである。

そこにあった絵本はたしか、『ねずみの歯いしゃさんアフリカへいく』『いやだいやだのスピンキー』『ジークの魔法のハーモニカ』などなどであった。私はとりわけ『ジーク――』が気に入って、必ずまずそれを探し、待つあいだに読み聞かせるのであった。しかし娘は、あまり気に入らないようであった。たいてい私の読むものはおとなしく黙って聴くのだが、何度も繰り返し読んでとせがまない場合は興味を惹いていないということである。スタイグの絵本を、娘が自分から読んでとねだることはついぞなかった。待合室には他にも美しい絵本、楽しい絵本も置いてあったので、そっちのほうがよかったということだからしかたないが。
そんなわけで、私はスタイグの絵本を自分のために取り、読んで、娘をつき合わせていたのであった。それ、もう読んだよ、とヤツに何度いわれようが、まずスタイグの絵本を読んだ。

なぜかというと、浅はかな私は、スタイグの絵本の登場人物たちが実に深く考えることに圧倒されるのである。
絵本のストーリーはすぐに完結するし、幼児に読み聞かせる際に、登場人物の苦悩の深さや長さをわからせるのは難しいし、無駄だ。起承転結が伝わるように読めばいい。
だが私は私で、それとはべつに、スタイグの登場人物たちと一緒に考えたくなるのである。どうしてこんなことになってしまったんだろう? 今なぜこんな辛い思いをしているのだろう? いったいどうしたら、前のように幸せになれるんだろう、家族の笑顔を取り戻せるんだろう?

登場人物の苦悩の長さ。スタイグの絵本や物語ではこれがけっこう長いと思うのは私だけだろうか。人物が自問するさまが、たっぷりと描かれる。『ジーク――』では、家出をしたジークはあちこちさまよいながら痛い目に遭ったりしながら、やはり家族のもとへ帰るんだけど、面白おかしいドタバタふうに描きながらも、思いつめたジークの心から、行き場のない怒りやどうしようもない寂しさがにじみ出てくるのを感じるのである。
ジークは豚で、だから家族も豚だし、一見これは豚さんの滑稽なお話絵本なんだけど、それだけで済ませてはいけないのだ、大人なら。

私は花粉症の、娘は副鼻腔炎の治療で、今も同じ耳鼻科に時々足を運ぶが、いつのまにかスタイグの絵本は姿を消していた。傷んで捨てられたのかもしれない。

『ぬすまれた宝物』は、だからって、スタイグが読みたくなって借りたわけではなかった。それこそ適当に児童書架から引っ張り出した一冊だった。でも、表紙に描かれた憲兵姿のガチョウの絵を見て、ああ、これはきっと、このガチョウが苦悩する話だな、と思ったら、やはりそうだった(笑)。
ガチョウは、永年仕えた城を追われるように離れて、傷心の放浪を続ける。どうしてこんなことになってしまったんだろう? と自問しながら。でも、苦悩するのはガチョウだけではない。もうひとりいる。何しろ本書の原題は「ほんとうのどろぼう」なので、「ぬすまれた宝物」に関する容疑者と真犯人、それぞれが思い悩むのである。というわけで、長く深い苦悩の時間をダブルで味わえる(笑)。

スタイグは風刺漫画家出身なので、キャラクター設定は動物が多いけどその表情は、第一の読み手として想定される子どもたちに媚びるところが一切ない。ストーリーも然り。とってつけたような華やかさや盛り上がりは、ない。ところどころに痛快な風刺が効く。最後は、ああよかったね、と安心できるところへ笑いとともに落ちる。

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