忙しい時に限って頼まれもしないことをついやりたくなる
2008-11-14


読むとやっぱり訳したくなる、というのはその言語がやはり自分のものになっていないことの表れじゃないかと思うのである。だって、その言語のままですいすいと読み進むことに、体が待ったをかけるのだから。しかもまるで哀願するかのように。お願い、待って、ついていけないわ、てな感じ。
前に取り上げた『マグヌス』のペーパーバックを最近手に入れた。
[URL]
辻由美さん訳の日本版を何回も借りて貪るように何度も読んだのに、原書を見るやいなや自分の言葉に置き換えようと躍起になっている、知らぬ間に。そんなふうにしている間に、嫌というほど読んだはずの和訳本の文章はどこかに消えて、いっこうに形にならない自分の言葉と原語が混じり合って右往左往して列を乱してまとまらない……。そんな読みかたをしている。

そんな読みかたをしてしまうので、そんな読みかたの結果を書きとめておこうと思った。
原書の、最初と、最後の、ほんの数行だけ。気の向いたときに、カテゴリ「こころみ」で。

第一弾は『マグヌス』。これ、マニュスって発音しないのかな?とひとりごとを言いながら。

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『マニュス』
シルヴィ・ジェルマン

幕開け

 宇宙はどのように始まったのだろう。小さな隕石の破片から、いくつか手がかりをつかめることがある。骨の断片ひとかけらから、太古の動物の骨格や外観を、植物の化石から、今は砂漠化した地域にかつて花が咲き誇っていたことを、人は推測することができる。気が遠くなるほど昔のことというのは、ごくごく微小ではあるけれど堅固で、くっきり痕跡を残す金属片の集まりだ。

(どーんと中略)

断片?

 今、ここに、ひとりの男の物語が始まる……。
 だがこれは、語られた逸話という逸話すべてに背を向け逃げてきた、物語。彼の手で引き裂かれたあらゆる言葉たちが、現実のうつわの底にぎゅっと凝縮された、人生の沈殿物。語るに十分な言葉たちが見つかったとしても、物語は、忘れた頃にやってきて、奇妙な作り話としてただ、通り過ぎていくだろう。


Sylvie German
Magnus
folio no. 4544 Gallimard 2007
Edition Albin Michel, 2005
[今の文学]
[こころみ]

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