続・夏がゆく
2008-08-26


『ひまわりの森』
トリイ・ヘイデン著 入江真佐子訳
早川書房(1999年)


昨日、平気でフランス時間のヴァカンスをとるフランス人たちめ何てヤツだ、みたいなことを書いたけど、普通に日本企業に勤めて日本人サラリーマンのごとく働いているフランス人をわずかだけど知っている。私の知り合いにはそのパーセンテージは低いというだけで、たぶん首都圏だとそっちのほうが多数派に違いない。ということは、いくらフランス人が増えても日本人みたいなフランス人が増えるだけでヴァカンス改善にはつながらないのだ。あーあ。今年もこうして同じようなことをぼやいて夏がゆく。

私のいちばん好きな花はひまわりである。
というのも私は太陽崇拝者なので、太陽を追っかけるひまわりにシンパシーを感じているのだ。若い頃、ひまわりのコサージュを大小2個買って、それを黒や茶の無地のワンピースにつける、というのがお気に入りのお洒落だったのだが、あのコサージュはどこに行ったのだろう。バブルけたたましい頃、あのコサージュをつけてパーティーに行き、デカイなそのひまわりぃと周囲から言われて得意げだったピチピチの私。

留学先を南仏にしたのは、映画『ひまわり』で観たひまわり畑と同じような風景を見られると期待してのことであった。実際には、私が選んだ海に近い町ではひまわり畑なんぞなく、丘陵地のほうへ小さな旅をしなければならなかったが。
見渡す限り広がるひまわりは、小学校の花壇とか、植物園のひまわりコーナーとかを凌駕して気高く感じられた。独りすくっと咲くひまわりも好きだったけど、群れて咲く大きな花の迫力に私は息を呑んだ。まるで、全世界を見てるわよ私たち、と叫んでいるように思えた。

娘が生まれ、初夏の街を子ども連れで歩くとひまわりの種をよくもらったものだ。ミニひまわりだったので、小さな鉢に植え、小さいながらもすくっと立って空を見上げるように咲く姿を楽しんだ。種も収穫したが、皿に広げて置いていたら、ある夜ネズミの食害に遭ってしまった(涙)。

本書が描く「ひまわり」は、痛切な記憶の象徴である。

トリイ・ヘイデンの本は『機械じかけの猫』が最初だった。若干冗長な箇所があるものの、とても面白い小説だった。私は以前からヘイデンの本を読みたくてウズウズしていたけれど、内容に圧倒されて読み進めなくなるのではないかという、児童虐待の事実への恐怖心が先に立ってなかなか手にできなかった。
が、『機械じかけの猫』に続いて本書『ひまわりの森』を読んで、彼女の既刊書に手を出す気になったのであった。

ヘイデンのノンフィクションは世界各地でベストセラーになっている。思わず目をそむけ耳を閉ざしたくなるような苛酷な事実の数々を、ヘイデンは実に滑らかに童話を紡ぐように物語化している。そのストーリーテリングのうまさがヒットの理由には違いない。

しかし、事実を語るのがうまいのと、書いた小説が面白いのとは、仕事としても重ならないし、別の次元の話だ。そういう意味で、ヘイデン初の小説である『ひまわりの森』は、ノンフィクションがすでに何冊も世に出ていてその仕事ぶりを認められていた者だから出せたといっても過言ではない。ヘイデンをすでに読み、彼女が見つめてきた子どもたちのこと、子どもを虐待する親たちのこと、そうした心が暗くなる問題のさらに暗い奥底をヘイデンとともに著作を通して見つめてきた読者でなければ、読破する体力はないかもしれない。


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