闘う相手を持たないわたし
2008-05-29


禺画像]
とても質素な我が家のミニ薔薇


講談社『本 読書人の雑誌』
April 2008
40ページ
「二つの神話」剣持久木


以前、だいぶ前だけど、まだ首相をやっていた小泉純一郎が、どこかの戦没者記念施設で特攻隊員の残した手紙や結果的に遺筆、遺品となったさまざまな展示物を見て号泣したという報道記事を読んだ。姑息なことをするよなあ、という感想をもった覚えがある。感動して号泣するのは勝手だが、公人の立場ではしてほしくないと思った。戦争の記憶は、重い。誰であれ、それを軽んじたり適当にあしらったりすることはできない。戦争を持ち出されると、体験者は悲痛になり、非体験者は沈痛になる。戦没者を悼むという行動は類稀なことでもなんでもない。なのにことさらそのような行動に出てやたらと痛惜の念をふりまいて見せ、普通の人の心の痛みにつけこむなんて、政治家として卑怯だ、とも思った。

剣持のこのエッセイによると、ニコラ・サルコジ仏大統領はやたらと「レジスタンスの闘士」の遺書を演説に引用するらしい。どの国の元首も、感動的なエピソードを政治利用する。たまのことなら話に抑揚をつけるためだろうと許してもやれるが、あまりあからさまで頻繁だと腹が立つ。どこの国民だって同じだろう。
ドイツ侵攻下にあったとき抵抗したレジスタンス活動についてはフランスでは神話化され、その神話は日本で特攻隊員を語るのに似ていなくもなく、神の業の域に昇華されて感動的に語られることしばしばだ。
もう一つ、フランスには神話がある。そっちはおもてだって感動的に語られることのない、「ファシズム神話」である。フランスは反ファシズムの国だが、反ファシズムであるためには敵としてのファシズムがなくてはならない。したがって国内に仮想的としてのファシズムに仕立て上げられた一団があったというのだ。剣持は、汚名を着せられた人々の遺族らに直接取材をして「ファシズム神話」に迫り、その成果を一冊の本にまとめたそうである。それは「記憶との闘い」であった長い歳月を聞き出して、いかにして神話が成立せられたかを追求する仕事だった。

さて。
目的をもって検索しお目当ての内容の図書を借り出す、ということをせず、いきあたりばったりに、タイトルが刺激的とか表紙絵が素敵とかたまたま目についたとかそういう理由で借りるということも、わたしの場合かなり多いのであるが、そういうふうに借りたものが大変面白いという確率が高いのである。
そして、ここ二、三年、そんな借り方をした本は、決まって第二次世界大戦がからんでいた。評伝であれ、小説であれ、批評であれ。わりと最近の人物伝を読んでも、その祖父母や曾祖父母の戦時の記憶を本人がきちっと受け継いでいる、とか。現代を舞台にした小説であっても家族に戦争の記憶が残っていてそのことに皆が苛まれる、とか。ある種の論文や学者の著作を追うと必ずあの大戦に行き当たり、それなしではこの研究は成り立たない、とか。
そうしたものを読むたび、あの戦争がもたらしたものは今もこの地球上に長々と横たわり、寝返りをあっちにうったりこっちにうったりして、下敷きにされている者たちを解放しないのだということを思い知らされる。そして、その度合いはヨーロッパのほうが、アジアよりも大きいように思う。
いや、それは間違いであろう。わたしが大陸もしくは東南アジアの一市民であれば、おそらく天上から連綿と続く侵略の記憶の鎖から逃れることはできなかっただろうし、自分の子どももその鎖につないだであろう。
横たわったまま立ち去らない記憶の重さと大きさはヨーロッパのほうがアジアを凌ぐ、と思うのはわたしが日本人だからで、日本では国を挙げて記憶をリセット(初期化)することに注力してきたからだと思う。

続きを読む

[まがじん]

コメント(全14件)


記事を書く
powered by ASAHIネット