生きていこうな!
2008-05-28


禺画像]
ツツジを背景にして生るイチゴ、我が家にしかない風景♪

講談社『本 読書人の雑誌』
April 2008
55ページ
「根源的な家」坂口恭平


我が家の近所でも「硫化水素」騒ぎがあった。建物の中ではなく、締め切ったワゴン車の中で発生させたらしい。路上駐車していていつまで経ってもどかないから「困るなあ、この車」と中を見たら男性が寝ていて、「ちょっとアンタ、邪魔だよ」と窓をコンコンしたけどまったく反応がない。なんか様子が変だと思って路駐をチクるのとは別の目的で警察に通報した。昨今の流行を踏まえて警察は近辺の居住者に避難勧告を出し、厳重にマスクをつけて車のドアをこじ開けた。同様にマスクをつけた救急隊員も控えていて、中の男性を運び出して救急車で搬送した。……というのが聞こえてきた話。「硫化水素」だったかどうか、話に尾ひれがついてきただけかもしれない。近所といっても通りを隔てたとたんによその国のごとく親近感は小さくなるこの町では、こうした噂話は毎日津波のようにある代わりにどこまで真実なのかはわからない。ワゴン車が停まっていて警察が来たことだけは事実のようだ。

硫化水素自殺がやたら起きている。新聞もやたら書きたてたので、ウチの娘も発生のさせ方を知っている。「ウチでもつくれる? 材料揃ってる?」「つくれるよ(苦笑)」

しかし、なぜ、「死のう」という気持ちになるのか、その心のメカニズムがわからないと娘はいう。何がどうしてどうなれば死にたい、死のうという発想になるのか。
「そんなに長くは生きられないのかも、とかは思うことあるよ」
「へえ、どういうとき?」
「喉がすごく痛いときとか、足に心当たりのない痛みが走るときとか」
「うーん、なるほど。原因不明の不治の病かもな」
「でも、自殺しようという話にはならないよ」
「うん、君は正常だ」
「自殺する人は異常?」
「うーん、異常というのはいけないかもね。きっと、若い人の場合はね、どこかでボタンを掛け違えたんだ。そのことを誰も教えてあげられなかった」
「オジサンの場合は?」
「本人が異常なんじゃなくて、異常事態に追い込まれたってことだろうね」

ボタンの掛け違いの例や、異常事態の例を挙げて説明するが、娘はポツリと、
「ホームレスだって、生きているのに」
といった。よく走る川辺の、橋の下に並ぶ大小さまざまなダンボールハウスや、壊れかけのカートに荷物をくくりつけてあちこちの公園を移動する人々を思い浮かべて。
「そうだね」
肯定しながら、わたしは、ホームレスが不幸のどん底で這いつくばって「生」を拾いながら必死で生き永らえているわけでもないことを、どう説明したらいいのかな、と思った。わたしはホームレスの人々を「好きでやってるんでしょ」と突き放して考えたことはない。まったくその逆で庇護を必要としている人たちだと昔は思っていた。

あるとき、もう思い出せないけど、ホームレスの生き様を何かで見た。ヴィジュアルをともなった記憶なので、テレビのルポルタージュか、あるいはグラビア写真付きの雑誌かなんかの特集で読んだのか、わからないけど、その無駄のない生活ぶり、たたんでまとめることのできる「家」「家具」以外に「背負う」ものを持たない気楽さ、究極の自由と「エコ」がそこにあってわたしは呆気にとられた。なんと。羨ましくさえ思えた。
もちろん、真似をするつもりはないけれど(笑)、ホームレスのことを「支援の対象」ではなく「学びの対象」として意識するようになったのは事実だ。可哀想だと思うのを止めて、彼らの生活の工夫から学べることがあれば学びたいと。

そうはいっても、橋の下の平和そうな人々に積極的に話しかける勇気はわたしにはなくて、通りがかったときにその立派な家をしげしげと眺めるのが関の山であった。


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[まがじん]

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