オサムのメグミ(1)
2008-03-07



『小林秀雄の恵み』
橋本 治 著
新潮社(2007年)


小林秀雄といえば橋本治なのである。
小林秀雄の随筆に出会わなければ、橋本治など読もうと思わなかったに違いないのである……というのは真っ赤な嘘である。

と書いてふと思ったが、なぜ嘘は「真っ赤」なのであろうか。悪い奴のことを腹「黒い」といい、気分のすぐれなさそうな人には、顔が「真っ青」よ、などという。黒い嘘でもなく青い嘘でもなく、赤い嘘。嘘が黒いだなんて、もうサイテーの底なしのろくでなしだわっ……というくらいひどい嘘になるかしら。嘘が青いとしたら、はん、見え透いたことをいうわねバレバレよっ……のような未熟な嘘のイメージね。
しかしいずれも「真っ赤な嘘」ほどには罪がないように思える。「真っ赤な嘘」って、もんのすっごーい嘘、に思える。
だけど、上記で「……というのは真っ赤な嘘である。」と書いたのが、ものすごい嘘かといえばぜーんぜんっ、そんなことはなく、たぶんお読みの皆さんは「またテキトーなことを」くらいにしか思われないだろうから、真っ青な嘘、というくらいだろうか、と思ってみるのだが、しかしいまいちど、

小林秀雄といえば橋本治なのである。
小林秀雄の随筆に出会わなければ、橋本治など読もうと思わなかったに違いないのである……というのは真っ赤な嘘である。

という文を眺めたところ、ここでの「真っ赤な嘘」は、「黒」より、また「青」よりずっとライトな嘘に感じられる。慣用表現というのは不思議である。

えー、ところで、嘘の色は、どうでもよいのであった。
本書は、12月に当ブログにいらしたコマンタさんのコメントで知り、その日のうちに図書館にリクエストをかけ、年が明けてから我が手にやってきた。やってきてからの3週間ほぼ毎日、勤務中食事中入浴中睡眠中以外はほとんど本書と向き合っていたのである。といっても「勤務中食事中入浴中睡眠中以外」をざっくり計算してみたら数分だったんだけど(泣)

私にとって2冊目の橋本治である。
『「わからない」という方法』の読後感がすこぶるよかったので、巷で話題の『日本の行く道』にもそそられていたのだが、自分としてはいったん彼の小説を読んでみるつもりだったのが、本書の存在を知り、読まずにおらいでか(=読まずにはいられませんわよ)モードに突入した。
とにかく頭を使う本であった。
新聞の書評には、「考えるヒントがいっぱいの本である」などと、小林秀雄の著書名にひっかけてあったが、考えるヒントになんてできない。ただただ、橋本治の思考の跡を、こっちで間違いないよな、あれあっちかな、やっぱこっちか、などと迷子になりながら、たどるのが精一杯で、とても自分自身の思考にまでひっぱり下ろしてくることができない。
ひっぱり下ろすと書いたが、橋本治は高尚なことを述べているのではない。難解では、ある。それは当人も書いている。「難解である」とは、「解するのに難儀する」、つまりむずかしいというよりはわかりにくいということである。早い話が「ややこしい」であって、橋本治は話をややこしくするのがことほど左様に得意な書き手なのだということがよーくわかる本なのであって、読者は、行ったり来たりする彼にくっついて一緒になって頷いたりかぶりを振ったりしているうちに疲れてしまって、さてでは橋本治の論考について私はどう考えるのか、というところにまで達することができない(で、本の貸し出し期間が終了してしまう)。

本書で橋本治がやっていることは、橋本治にとってけっして親しんできたとはいえない小林秀雄というひとりの高名な書き手が著したさまざまな著作を、初読、再読、再々読し、小林秀雄という書き手を必要としていたある時代の日本人たちっていったいどんな日本人だったのか、という問いの答えに達しようとする試みである。
小林秀雄著『本居宣長』を題材に、小林秀雄が描いた宣長像に疑問を呈してみる。

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