無駄な抵抗と知りつつも
2008-02-28


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『無常という事』
小林秀雄 著
角川書店 角川文庫(1954年初版、1968年39版、1978年改版27版)


中原中也といえば小林秀雄なのである。
中也の詩に出会わなければ、小林秀雄など読もうと思わなかったに違いないのである。
私の手許にある小林秀雄の本は、本書のほかに同じ文庫の『私の人生観』、それだけだ。小林秀雄という著作家は、絶対に読むことを避けて通れなかった人であったと記憶している。それは、もしかしたら私たちの世代が最後かもしれないが……。著作は推薦図書にもリストアップされていたし、教科書や参考書に引用されて問題文として掲載されていたようにも思う。
が、私にとって小林秀雄との出会いは、いわゆるお勉強エリアではなかった。個人的な趣味や関心から著作を読み、小林秀雄の思想に共鳴したとか、批評に感じ入ったとか、論ずる内容が興味深かったとかでも、もちろんない。

「コイツが中也からカノジョを盗ったんだな」
小林秀雄を読むきっかけはそこだった。
とはいえじっさい、ことの真偽はどうでもよい。
12〜16歳の頃って、探偵小説の絵空事の世界にばかり頭を置いていた。そして普通の小説は読まず詩ばかり読んでいた。好きな詩人は幾らもいたけど、生きた国や時代がてんで違って共感を覚えて味わうというよりは、絵本をめくる感覚で、自分の中で乙女チックな絵をつけて詩を読んでいた。自分のつくった詩にイラストをつけるのが、その頃の私の趣味であった。つまり、文学史上に残る名だたる詩人たちを、私は単に自分の趣味仲間に入れていただけなのである。中也の詩もその範囲内にあったのだ。
だが思春期の私は、中也の評伝などに触れ小林秀雄の名を見知ったとき、イラストポエムのきらきらふわふわしっとりした世界からドロドロした人間関係の中に放り出されたような気がした。ムムム、これははっきりさせなきゃいかん! みたいな気分で、小林秀雄を捕まえにいく。
で、読んだ。
彼のどの文章を最初に読んだか、全然覚えていない。
しかし、とにもかくにも、小林秀雄を読んでいるとき中原中也の名はすでになかった、私の頭の中には。
書いてあることが難しすぎた。
文字をたどるだけで精一杯だ。
あかん、読めへん。
ギブアップしてはリベンジを試みる。
そんなことを繰り返したが、なぜリベンジを試みたのか、そのわけは、たぶん、その自信たっぷりの語り口にモーレツに惹かれていたからである。
意気込みは十分だが飽きっぽい、そうした生来の性分が最もトンガって表出していたこの頃の私は、「つまらない」「難しい」「わからない」という感想をもった書物に再度チャレンジするということはほとんどなかった。今もって、なぜ小林秀雄に食いつこうとしたのか、自分のことでありながらそのココロがわからない。しかし、振り返れば、現在の私の批評文嗜好は小林秀雄との出会いに端を発すると思われる。
「自信たっぷりの語り口」、そういう文体で書く人の、脳内がするするつるると透けて見えるような文章の場合、その人は単に偉そうなだけで大したヤツじゃない。
「自信たっぷりの語り口」で書かれた文章に、二重三重、いやもっと幾重にも、書かれたときの気分、心情、動揺、意図、思考、確信、疑念……が載せられ詰められ隠されて、書き手の真意が明快なように見えながら、実はその真意は影武者でした、みたいに、一筋縄ではいかないあぶり出し迷路パズルのような仕掛けを感じるとき、その文章の書き手という人間を、なんとなく、信用していいと思える。
私には、今書いたのを読んでくださればわかるけれど、このようにまったく上手に言い表すことはできないながら、文章に対するある好みがある。その好みを、かたちづくったのが、私の、小林秀雄なのである。

小林秀雄について、いえることはあまりない。
だって、今でもまだ、彼の書いたことがわかったとはいえないからだ。


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