オサムのメグミ(1)
2008-03-07


宣長が詠んだ歌、『源氏物語』の読み解き方をたどり、ほんとうは宣長は○○と思っていたんじゃないか、小林の読みはちょっと違うんじゃないの、といった幾つもの仮説を立ててみる。
あるいは小林秀雄著『無常という事』を題材に、その収録エッセイの書かれた時期と内容をよく咀嚼し、小林秀雄の脳内を透視しようとする。
その時代の日本の気分と、その時代の小林秀雄の気分のズレと一致に思いを馳せてみる。
そんなことを幾つも本書の中で、トライしたとおりに書き連ねていくものだから、読み手には持久力が要る。「こういうもんは、好かん!」と思ってしまうともう1行も読み進めないだろう。でも「こういうのって、スキ!」と思っちゃうと、つまり迷路に片足突っ込んじゃうとなかなか逃れられない。橋本治という藻にからめとられて身動きできなくなる状態、そしてそれが快感な自分にまた悦に入る。

はっきりいうと、書かれていることの趣旨は『「わからない」という方法』と同じである。

『「わからない――』は彼自身のセーターの本や、昔手がけたテレビ番組の台本の仕事などがその(迷路の)道しるべ役を果たしていたのだが、本書ではそれが小林秀雄であるというだけのことである。小林秀雄であるぶん、それは少々「構えた雰囲気」を漂わせることになろうし、小林秀雄であるからには、道しるべがあまりファンキーだったりフレンドリーであったりするのも変であるから、若干襟を正して見えるだけである(正して見えるといったけど、本書には「じいちゃんと私」という章があるのだが、じいちゃんとはいわずと知れた小林秀雄のことである。小林秀雄を相容れない他者のように表現する一方でじいちゃんと呼ぶ。どこまで本気でそう思っているのかは、読者にはわからない)。
いずれの著書でも橋本治が言おうとしているのは、世の中に考え方っていろいろあるだろうけど、僕はこういう考え方でもって、考えるという作業をしているんだよ、ということである。読者に向かって、お前もそうしろ、とは言っていない。共感も求めていない。「僕はこうなんだ、以上。」である。
本居宣長や小林秀雄に関するおびただしい数と思われる各種研究書や論文を、チラ見くらいはしたかもしれないが、本書を著すにあたって大いに参考にしたとか熟読したとかいった様子はまったくなく、あくまで自分自身が向かったテキストから宣長本人、小林本人を見つめている。
橋本治自身は自分は学者じゃないというけれど、これってめいっぱい学者の態度じゃなかろうか? 研究対象に関して人が書いたものをコピペして体裁整えただけのエセ学者のエセ論文が世にはばかっていることを思えば、橋本治の仕事はなかなか「いーじゃん、いーじゃん、すげーじゃん」※だと思うのである。

※ウチの娘がヒマさえあれば聴いているCDの歌詞。母もヨコ聴きして一緒に口ずさんでいるのであった。いーじゃん、いーじゃん、すげーじゃん♪ ぎんなんさんちはどう?(えへへ)

本書は、私のようなレベルの読者には、考える「ヒント」なんかになってくれそうもない。でも、橋本治が小林秀雄から「恵みをもらった」といっているのと似た意味で、本書は私にたくさんの恵みをもたらしてくれた。その恵みとは、多くの知的水準の高い人々にとっては「そんなの、だんなさまあ、おめぐみくだされえって泣きついて恵んでもらえる程度のもんじゃねえか」てなもんかもしれないが、時間と知性と物質的豊かさに著しく不足のある私にはダイヤモンドを超える恵みなのである。

というわけでようやく「オサムのメグミ その1」を挙げるのだが、長くなりすぎたのでその内容についてはまた今度ね。
●オサムのメグミ その1 『窯変源氏物語』橋本治著 …… A suivre!

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