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新緑の通天橋。
美しい自然はいっぱいあるんだけどいちいち「入場料」が要るってのが困るよね。
藤原書店『環』Vol.2(2000年夏号)
42ページ
〈特集〉『日本の自然と美』より
対談『魂と「日本」の美ーー水俣から学ぶ』
鶴見和子(社会学者)
石牟礼道子(作家)
季刊誌『環』のこの号が、私と「水俣病」との再会であった。
とうの昔に風化した過去の事件のように、この三字熟語が想起させるある種の事実の上澄みは頭の片隅にはあったけれど、「それ」が「何」なのかはもちろん知らなかったし、わかろうという意思も持ち合わせていなかった。私はべつに、どのような事件であれ被害者救済の会といった類いの活動に関心はなかったし、公害病の研究者でもなければ環境破壊防止や動物愛護を訴える(胡散臭い)活動家とも縁がない。ただ、水俣病にかんして言えば幼少の頃にやたらと耳について離れないほど報道が盛んにされていた記憶があって、もっとのちにチェルノブイリとか世界ではいろいろと起こるわけだけれども、そうした、大人になってから見聞した「許せないいろいろな事ども」〓とは少し異なった色を帯びて私の中にあったのは確かだった。
42ページから63ページまで、この対談は、いささか冗長に続く。正直に申し上げるが、この対談記事、何をくっちゃべってらっしゃるのか、最初は全然わからなかったのである。なんといっても憧れの鶴見和子なので、私はなんとか理解したかったのだが、対談記事なので言葉は非常に平易なのだが、ふたりの口にのぼる話題の要素(エレメンツ)にかんする知識がない。(※この号に限らず『環』が自宅に届くたび、そして記事を読むたび同じ思いをするんだけど)
ふたりは水俣について語り合っている。
石牟礼道子はその当の土地の人間であり、水俣病を題材に小説を書いている作家である。対して鶴見和子はまったくの外様であり、「東京からの研究者」として同僚とともに水俣入りした経験をもつ。その際に石牟礼に会った。石牟礼は、現地の被害者、患者たちと鶴見ら研究者一団の仲介役をした。そのときから25年程度経って、当時の経験を振り返り、水俣の過去と現在と未来について、「日本の美」という観点から思いつくままをあーだわねこーだわねそうよそうよそうだったわよきっとそうなるわよ、と語り合っておられる。
この中で、鶴見が柳田國男から助言を得たというエピソードを明かしている。この助言がなかったら、自分は、水俣だろうとどこだろうと社会学者として訪ねる資格をもち得なかっただろうという重要なアドバイスだ。
《柳田先生がこう言われたの。「外国からいろんな学者が来ます。だけど日本には二つの違う種類の人間がいるんですよ。一つは四角い言葉を使う人種、もう一つは丸い言葉を使う人種がいるんです。外国の学者はみんな四角い言葉を使う人にだけ話を聞いて帰るから、日本のことはさっぱりわからない。だからあなたはほんとに日本社会のことが知りたいなら、丸い言葉を使う人の話をお聞きなさい」って。もう私はそばで聞いててびっくりしたの。》(50ページ)
正確には鶴見へのアドバイスではなく、鶴見が柳田のもとへ案内した外国人研究者に対して柳田が発した言葉であったのだが、鶴見には、このとき以前に生活言語にかんするフィールドワークを通して得たある見解があったので、柳田の言葉が文字どおり腑に落ちたのである。それを経て、水俣へ行った。水俣へ行くと、丸い言葉はさらに輪をいくつも重ねた二重丸三重丸の言葉となる。ここではいわば四角い言葉の側の人間である自分は、石牟礼道子という四角と丸のあいだを行き来するシャーマンがいなければ、水俣の人々のどんな言葉も理解し得なかったであろう。と、そのようなことをおっしゃっている。
私は、その二重丸三重丸の言葉ってどんな言葉なのかと素直に疑問に思い、素直に水俣という土地に興味を惹かれたのであった。