空気の温度と湿度を感じる物語
2007-11-08


『おわりの雪』
ユベール・マンガレリ 著 田久保麻理 訳
白水社(2004年)


冒頭を読み、鹿王院知子さんを思い浮かべた。そして彼女に読んでほしいと、強烈に思った。

 《トビを買いたいと思ったのは、雪がたくさんふった年のことだ。》(3ページ)

物語はこの一文で唐突に始まる。「ぼく」は、道端で古道具を売っている男に、前金を払うと言ってみるのだが、断られる。鳥かごに入ったトビに高い値段をつけて男は、あとでやっぱり要らないから前金返せといわれるのが嫌だから、そういう商いの仕方はしないという。しかたなく「ぼく」は、トビを買える金額が貯まるまで我慢しなくてはならない。「ぼく」には病に臥せった父がいて、話し相手になっている。トビとラジオならどっちがほしいと思う?と訊ねる「ぼく」に、父はラジオだと一度は答えながら、息子の話を聴くうちに印象的な口ぶりでこういう。
《「トビがいいか、ラジオがいいか、もうわからなくなっちまったなあ……」》(6ページ)

以来父は、息子のトビの話を好んで聴くようになる。息子は「トビ捕りに出会ってトビを捕まえたときの話を聞いた」という作り話をついしてしまうが、父は信じたのかどうか、「トビ捕りの話をしてくれ」と息子にいう。

父の病は重いようだ。母はときどき泣いている。しかし、病の重さは具体的には語られず、父の苦痛や母の悲しみも語られない。「ぼく」はトビを買うため、ある「仕事」を引き受ける。誰もしたくないような仕事だ。それをしてしまったことについての心の痛み、辛さ、引っかかり、なども直接には語られない。

《通りはいつまでたってもがらんとしていた。どうしてなのかはわからない。でも、通りに沿ってまっすぐのびる石壁のせいで、よけい、がらんと感じたのかもしれない。》(22ページ)
《「つらいのか?」
  ぼくは正直な気持ちをこたえた。
 「ううん、そうでもない。つらいのとはちょっとちがうんだ」》(25ページ)
《ぼくは声をたてずに泣いた。そんな泣き方をすっかり覚えてしまっていたから。》(118ページ)

何も説明されないのに、そこに横たわる空気が冷たく乾いているのかあるいは甘く湿っているのかが、行間の空白からにじみ出て伝わってくるような静謐な語り。
「ぼく」は裕福ではない。だが物語は少年の貧しさを嘆くものではない。「ぼく」は父と母を愛している。しかしことさらに親子愛の美しさを強調してもいない。「ぼく」はただその居場所を受け入れ、同様におのれの運命と居場所を受け入れている人々とふれあい、できごとを受けとめていく。音のない旋律が融け残りの雪を描く。




ここ数か月、同じ書き手の書いたものを集中して読んでいた。その書き手の名は鹿王院知子さんである。彼女はまだプロの作家ではない。私は偉そうに「わかりにくいよ」「説明が足りないよ」などと評しながら、しかし、ではどうすればいいのか、範を示せずにいるのだが、『おわりの雪』は、彼女にとってひとつのサンプルになりはしないだろうか、と考えた。唐突な始まり方をし、こと細かに説明しすぎないで描き、さわやかな読後感を読み手に与える、鹿王院さんの書くものはそういう印象だ。だが何かが足りなくて、どこかしらが弱い、その理由はなんだろう、と思わせる頼りなさが解消できない。
『おわりの雪』は、こうした小説が好みでない人にはまったく面白くもなんともないジャンルには違いないが、少なくとも私は一行ごとに胸がきりりと締めつけられ、「ぼく」のみならずすべての登場人物の心に棲む塊のようなものをどっしりと預けられてしまったような読後感がある。それでいて、冬景色の中で垣間見る澄んだ青空や、あるいは雪に映る陽だまりのような透明感をともなっている。
おそらく、そういった何かを行間からより滲み出せることができたとき、鹿王院さんは文壇を駆け上っていくだろう。





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