恵まれていることが裏目に出ている
2018-05-31


『図書準備室』
田中慎弥著
新潮社(2007年)


田中慎弥の作品を読むのは「新潮」に掲載されていた『宰相A』以来だった。

「新潮」2014年10月号は持っている。めったにこの手の雑誌は買わないのだが、宰相Aとは時の総理大臣を暗示しているに違いないと思って興味をもったのだった。ほかにも、加藤典洋と高橋源一郎、小川洋子と山際寿一の対談も気になった。梯久美子の連載も読みたかった。
しかし『宰相A』を読み通すことはできなかった。途中から苦痛が増し、気持ちが悪くなった。冒頭から数ページは調子よく好感をもちながら読めたので、そんなふうに思わされることにいささか腹立たしい思いだった。屁理屈くさい文体は、あまり見ないタイプだし好みではないが、だからこそ母親への思慕を前面に出した冒頭にはうってつけに思えた。面白そうだと思いながら読み進んだが、背景はいろいろと現実を映し過ぎていて気分がどんよりするうえに、宰相Aの男性器の描写がちらついたところで吐き気をもよおし、このあとどう物語が展開しようと知ったことかという気になった。たぶんわたしは作家の術中にはまってしまったのだろう。真に、今この社会で起こっていること、そしてこの世界をかたちづくるに至った歴史のありさま、またわたしたちが後継に残すべき世の中の在りかたを、真に考え抜くアタマが、気構えがあるなら、このような仮定のストーリーなどすいすいと咀嚼して読み進むことができるはずなのだろう。
でも、わたしにはできなかった。
以来、世の中はヒドイ状況になるばかりなので、なおのこと、読み直す気は起きない。

ある日図書館で、日本文学の書架を眺めていて、偶然『図書準備室』という題名が目についた。
ぱらっとめくると

図書準備室
冷たい水の羊

という2篇が収録されているとわかった。
図書準備室というからには図書館とか図書室の話だろう、本の話だろう、そして冷たい水の羊とは、なんてロマンチックなタイトルなんだと、かつて『宰相A』でもよおした吐き気のことなどすっかり忘れていたこともあって、好奇心に駆られて借りてみた。
心のなかのもうひとりのわたしは、この好奇心はきっと見事に裏切られるに違いないという予想をしていて、そして見事にこっちの予想が当たったのである。

「図書準備室」は、ひきこもっていい歳になっても働かずにいる男が親戚の集まった場で語るどうでもいい思い出話である。男は非常に自虐的に、しかしいきいきと、自分の小中学生生活を描写し、ひとりの教師とのやり取りを語る。この教師が自身の過去の経験について語る、そこに至るいきさつが描かれる。ひきこもり男とその教師とのかかわりの舞台が、図書準備室である。その場所が図書準備室である、という以上の意味は「図書準備室」にはないのである。図書室でこんな本に出会ったとか教師がこの本を読めと言ったとか、蔵書にかんするほんの一文さえ出てこない。なぜ、図書準備室である必要があったのだろう。もう何度か読めばわかるのだろうか。ぜひ、わかりたいのだが。


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