爆弾低気圧、だなんて直接的すぎて情緒もなければ風流(ふりゅう)も感じられない退屈なネーミングだが、ともかくその爆弾のせいで大寒波に見舞われ雪が降った。まったく寒かった。我が家の乏しい暖房器具ではとうてい追いつかないほど冷え込んだ。たくさん着込んだ母は縮こまるようにして椅子に座ったきりぴくりとも動かず(気温が高くても全然動かないんだけど)、動かないわけにいかない私はがたぴし鳴る床を踏みしめ膝を振り上げ腕をぐるぐる交互に回し大声で歌いながら台所仕事にいそしんだ。点けっぱなしのラジオからアップテンポの曲が流れる。おお今こそレッツダンスよ、知らん顔してうたた寝三昧の母と猫をほったらかしてランランランイエイエイエと歌詞はごまかしながら踊ったり飛んだり跳ねたりした。そんな滑稽な時間を過ごしても、からだは温まらなかった。寒かった。どうすれば温まるのか。答えは二つ。その1、体温のあるものを抱く。体温のある抱ける動物といえば猫しかいないので猫を抱きかかえるが猫がじっと腕の中にいるのはほんの数秒である。しょっちゅう膝に寝にくるくせに、それは私の忙しい時に限っていて、私が温めてほしいときは逃げるのである。飼い主不幸モノめ。さてその2。食う。明快だ、満腹は心身を温める。あまりの寒さに外へ出るのをきっぱりと拒絶した私のアタマとカラダは、今このとき家の中にあるものでほかほかに温まる食事を用意するためにフル回転するのだった。なぜ、人間のアタマとカラダは食うためにはこのように有効な仕事をするのだろう? なぜ、より稼ぐためのアイデアや、言い得て妙のドンピシャの訳語はちっとも浮かばないのに、信じられない食材の組み合わせを思いつき世界の果てのグランシェフも敵わない一期一会の珍味をうみだすのである。美味しいなあ。温まるなあ。母、猫、私、の寂しい食卓(しかも猫は足元で丸くなってるだけだし)も至福の時に変わるなら、爆弾低気圧も大寒波到来も悪くないのだった。
物干しから眺めた東の屋根
雪を冠った時、日本の瓦屋根は格別に美しい。すっぽり覆われるのではなく、うっすらと薄化粧したくらいがいい。組んだ瓦の陰影が透けるくらいが美しい。瓦の影は幼い頃のいたずら描きの線に似て目的地のないまま延々と続く。線の描くのは波。甍の波と雲の波、の歌を歌うまでもなく、穏やかな海岸に打ち寄せる波のようでもあり、光を浴びて揺れる湖面のようでもある。線の描くのは皺。帯を解き、きものを脱いで露になる襦袢についた縦や横の皺に見えたりもする。線の描くのは虫。もちろん、長い虫だ。いもむし、あおむし、けむし。みみず、やすで、ぼうふら、むかで。行列つくって歩いていると想像すればユーモラスで気持ち悪さなど吹っ飛ぶというものだ(だからといってウエルカムな気分にはなれないが)。
西の屋根
苺の鉢
苺に寄ってみた
セ
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