2014-08-20
しかし、この意見はたちまち例の「言い伝え」によって却下された。それだけではない。ウチの町内の場合、お地蔵さんを信じ敬い朝な夕なに拝む人はけっこう多いのである。いうまでもなく高齢者の面々だ。杖や歩行器なしでは歩けない人々だ。そんな人々を思えば、お地蔵さんを路地奥へはやれない。
それに費用はどうする?
町内会費の積立が少し残ってるけど?
秋の行楽レクレーションを取り止めてお地蔵さん再建に遣うか?
この問いには満場一致で「町内会費で再建しよう」にたちまち決定した。
……と、ことほど左様に町内会のなかであーだこーだと議論しているのが仲介不動産業者の耳に入ったようであった。
「古い祠のお取り壊し、新しい場所での再建、お祓いお清め、いっさいの費用を弊社が負担させていただきますっ」
(当たり前やろ最初からそう言えアホ。……と思ったのは私ひとりではないはずだ。笑)
金銭面のハードルが低くなっても、移転場所の決定は難航した。誰かが住居の一部を提供するしかもう方法がなかった。
とうとう、ある人が手を挙げた。「ウチの軒先でよかったら……大それたこと申しますけど……」
「よろしいんでっか、ほんまによろしいんでっか」
「ありがとうございます!」
「おおきにおおきにおおきに!」
満場一致で感謝感激大賛成。
そんなわけで無事に落ち着き先が決まったお地蔵さん。きれいにお召し替えもできて、住民の地蔵信仰は否が応にも深まり、愛着が強まり、帰属意識は高まったのである。
そして今夏の地蔵盆。
今年の当番組は私たちだった。
例の染め工場跡に建った巨大なマンションに住むいくつかの家庭が町内会に加入し、それらの子どもたちも参加しての、賑やかな地蔵盆となった。子どもたちが無邪気に遊ぶ姿を見るのってこんなに癒されるのか、なんて、あたしも年をとったもんだなあなどとのどかな安寧に浸ると同時に、こんなに屈託なく無心に遊ぶ子どもたちを間近に見られる幸せが稀有なものになりつつあることに、不安も禁じえないのだった。スーパーボールをたくさんすくえたと居合わせる大人ひとりひとりに自慢して回ったり、くじ引きで欲しかったものが当たらなかったと悔し涙を流して町内じゅうに轟くほどの泣き声を上げたり。嬉しいこと楽しいこと悔しいことを全身で表現するのが子どもたちだ。世界は子どもたちのために在り、世界に未来が在るとしたらそれは子どもたちのために用意された未来に他ならない。子どもたちの未来をつくらずして世界の存在意義はない。
それなのに、現在の世界の非情なこと。
地蔵盆と前後して届いた写真月刊誌が、厳しい現実を幾つも掲載していた。瓦礫のなかを歩く子、爆撃で家族とともにひとたまりもなく吹き飛ばされた子、銃撃に遭い路上に倒れたまま放置された子、惨状のショックに言葉を失い回復しない子、甲状腺癌が体のあちこちに転移し息絶えた子……。笑うのを忘れた子。泣くのも忘れた子。ガザ。ベイルート。イラク。チェルノブイリ。
子どもたちに洋々たる未来が用意され、子どもたちがその輝く未来に向かって長く生き延びますように。お地蔵様には、ただただそれを願うのである。「世界中の」というと若干荷が重くてらっしゃるようだが少なくとも我が町内の子どもたちの未来は、見守って応援してくださるはずなのである。
よろしくね。
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