2014-01-09
史上最強の雑談(7)
『人間の建設』
小林秀雄、岡潔 著
新潮文庫(2010年)
「一(いち)」とは何だろう。
「一つ(ひとつ)」に含まれるのはどこからどこまでか。
自問してみるも、明快な答えにはたどり着けない。たどり着けないけれど、それでも、ひとりひとりがそれなりに「一」を認識し、意味するところをわかったつもりで言葉として用いている。「一(いち、ひと)」のつく言葉は多い。夥しい。昨今、「一段落」を「ひと段落」と発音する誤用が蔓延し、こともあろうに公共の電波でアナウンサーまでが誤用している。しかし、誤用は時を経て「それも間違いとは言えない」となり、やがて「それが正しい」となってしまうのだろう。「あらたし」が「あたらしい」と誤用されるうち通用したように。だから、ま、今回、そこは措く。
人はいったいいつから「一」を認めるのか。「一」とは数字であるがゆえに、数学者はこの「一」というものについて整然たる理路でもって解説できるのではないかと思われがちだが、本書の中で岡は、数学では「一は何であるかという問題は取り扱わない」と断言している(103ページ)。だが、だからといって「一」のことを「あるかないかわからないような、架空のものとして」扱っているわけでもない(104ページ)。「内容をもって取り扱っているのです」(同)。
では、「一」の内容とは何だろう。
数学的には考えも及ばないから、自分の体感で述べたいが、「いち」とか「ひとつ」とかいうとき、それはあるときは「個」であり、あるときは「全」であるといえる。
個別対応をする、とは、十把一絡げでなくひとりひとりに相(あい)対するということだ。あるいは、その人の、またはその家庭の状況を斟酌して採るべき処置を検討するということだ。
個性豊か、だとか、個性を尊重、だとかいうけれど、これもいわばある種の個別対応だ。人をその集団でなく、ひとりずつ別の要素としてみる。評価する。
長い行列をつくって歩く蟻たちを黒い紐状の線を描く集団ではなく、一匹一匹、虫としての個体を見つめ、その生に思いを馳せるとき(笑)、その思考は蟻の個性を尊重し、蟻に対して個別対応をしているといえるだろう。
全力を尽くす、とは、「私」の持てる力を全部何かに注ぎ込むことだ。その時の「全力」は、「私」という「ひとり」の人間に宿るものである。
全身にみなぎる力、とは、「私」という「ひとり」の人間の体に満ちる力である。
全校生徒、とは、ある「ひとつ」の学校に属する生徒のことである。
全国大会、とは、日本という「ひとつ」の国の代表にふさわしい「一番」を決する大会である。
唯一とは、たったひとつのことだけど、統一とは、実に多くのものを内包したうえで成し遂げられるものである。唯一は、「私」の気持ち次第で何でも「唯一」と認めることができ、他者に異議を唱える権利はないけれど、統一は、「私」の気持ちのほかに他者の同意が必要だ。
彼は唯一無二の親友だ。(ふうん)
これが唯一、わたしの家にあってもいいと思えるデザインなの。(あっそう)
父について唯一許せないのは足が臭いことよ。(だろうな)
今日はブルー系で統一してみたわ。(何言ってんの、靴が赤いよ。ダメ)
体育祭用のクラスTシャツをボーダー柄で統一したいんだが。(そりゃ反対意見が噴出するよ)
秀吉がやったようにこの国を統一したい。(アンタじゃ無理よ。ホントに戦(いくさ)するつもり? 馬鹿だね)
人間の体を構成する細胞や遺伝子に至るまで、小さな「一」については無限にその「個体」を追究することができる。いっぽうで、世界はひとつ、地球はひとつ、宇宙はひとつ……と、大きな「一」も無限に膨張する。
私たちはもはやその両極端のきわみまで、とりあえず、理屈で、理解することができる。
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