1 est defini comme le successeur de 0, mais...
2014-01-09


冷静に考えて、素晴しいことだと思う。「一」という概念はミニからマックスまですべてに適用可能なのだ。それを無意識に私たちは使いこなしている。
このこと以外に「一」は順序を決めたり数を数えたりするためのカウントの道具の最初のかけ声である。いち、に、さん。ひとつ、ふたつ、みっつ。カウントする際の「一」に個性も全身もない。また、3-2=1(3ひく2は1)と解を求めたときの「一」にも、唯一だの統一だの、意味はない。そのことも、私たちは使い分けている。

《小林 岡さん、書いていらしたが、数学者における一という観念……。
 岡 一を仮定して、一というものは定義しない。一は何であるかという問題は取り扱わない。
 小林 つまり一のなかに含まれているわけですな、そのなかでいろいろなことを考えていくわけでしょう。一という広大な世界があるわけですな。
 岡 あるのかないのか、わからない。
 小林 子供が一というのを知るのはいつとかと書いておられましたね。
 岡 自然数の一を知るのは大体生後十八ヵ月と言ってよいと思います。それまで無意味に笑っていたのが、それを境にしてにこにこ笑うようになる。つまり肉体の振動ではなくなるのですね。そういう時期がある。そこで一という数学的な観念と思われているものを体得する。生後十八ヵ月前後に全身的な運動をいろいろとやりまして、一時は一つのことしかやらんという規則を厳重に守る。その時期に一というのがわかると見ています。一という意味は所詮わからないのですが。
 小林 それは理性ということですな。
 岡 自分の肉体を意識するのは遅れるのですが、それを意識する前に、自分の肉体とは思わないながら、個の肉体というものができます。それがやはり十八ヵ月の頃だといえると思います。
 小林 それが一ですか。
 岡 数学は一というものを取り扱いません。しかし数学者が数学をやっているときに、そのころできた一というものを生理的に使っているんじゃあるまいかと想像します。しかし数学者は、あるかないかわからないような、架空のものとして数体系を取り扱っているのではありません。自分にはわかりませんが、内容をもって取り扱っているのです。そのときの一というものの内容は、生後十八ヵ月の体得が占めているのじゃないか。一がよくわかるようにするには、だから全身運動ということをはぶけないと思います。
 小林 なるほど。おもしろいことだな。
 岡 私がいま立ちあがりますね。そうすると全身四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。そういうのが一というものです。一つのまとまった全体というような意味になりますね。だから一のなかでやっているのかといわれる意味はよくわかります。一の中に全体があると見ています、あとは言えないのです。個人の個というものも、そういう意味のものでしょう。個人、個性というその個には一つのまとまった全体の一という意味が確かにありますね。
 小林 それは一ですね。
 岡 順序数がわかるのは生まれて八ヵ月ぐらいです。その頃の子に鈴を振ってみせます。初め振ったときは「おや」というような目の色を見せる。二度目に振って見せると、何か遠いものを思い出しているような目の色をする。三度目を振りますと、もはや意識して、あとは何度でも振って聞かせよとせがまれる。そういう区別が截然(せつぜん)と出る。そういうことで順序数を教えたらわかるだろうという意味で言っているのです。一度目、二度目、三度目と、まるっきり目の色が違う。おもしろいのは、二度目を聞かしたとき、遠い昔を思い出すような目の色をする。それがのちの懐しさというような情操に続くのではないか。だから生後八ヵ月というのは、注目すべき時期だと思います。》(「「一」という観念」102〜105ページ)



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