Je parle de Monsieur de professeur Nishikawa...
2013-11-27


《(略)文明化、近代化の名のもとに、歴史的条件によって内容的にはさまざまな違いがあるが、構造的には類似した国民国家群をもたざるを得なかった。逆に言えば、国民国家の諸装置と諸制度は、西欧的な伝統をこえて、いわばモジュールとして移植可能であることが歴史的に証明されている。
 もっともそれが住民にとって幸福か不幸かは別問題です。中核―周辺の世界的分業はポスト植民地時代においても、構造化された差別を残している。世界の諸国家は構造化された差別のネットワークの中で位置づけられて、互いに独自性と差異を強調しながら、構造的にはよく似た形になってゆく。》(164ページ)



おんなじような顔をした国が増え、グローバル化だとか無国籍風だとか地球市民だとか調子のいい快さげなフレーズでひとくくりにされ、いつの間にか同じ色に分類されていく。互いの中に共通項を見出し、共感し、協力していくことは意義あることだろう。しかしそのことと闇雲になんでもかんでも右へ倣い同意を示し追従することとは大きく異なる。いわゆる「国民国家」という定義による国境線というものに、こだわって命を賭すほどの執念を見せることに、わたしは大きな違和感を覚える。しかし、ウチの町内の話によその町内会長が口出しをされることには小さな憤りを覚える。ウチの町内会にはウチの町内会の文化がありルールがあんのよ。あんたは自分とこの町内で演説ぶったらええやんか。というのは極端な喩えでちっとも喩えにならないが、国境線も区割り・町割り線も机上の空論で幻想でしかない(だって実際に線は引かれていないのだし)とすれば、こだわって死守するのは最小単位にとどめ、ひとたび目を空と大地に向けた時は少しばかり寛容でありたいと思うのである。

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[西川先生]

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