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ポンピドーセンター。ちょうどマティス展をしていた(観なかった)。
『九月の空』
高橋三千綱著
角川文庫(1995年)
旅のお伴に文庫を3冊。ひとつは『私の身体は頭がいい』(内田樹)、もうひとつは『長靴をはいた猫』(シャルル・ペロー/澁澤龍彦訳)、そして本書。
なんでパリへ行くのにこの3冊なん? 共通点はたったひとつ、著者(訳者)たちは私の異常な偏愛の対象となっている方々であるということである。
と、いってみたけれど、実は単なる偶然で、機内じゃ退屈して寝るしかないに決まっているけどどうせ寝るなら睡眠薬代わりに何かあったほうがよかろうと思って文庫棚から適当にがさがさっと抜いたらこの3冊だったのだ。
偶然とはいえ、われながらナイスチョイスだわん、と手提げバッグに入れる。
いずれももうイヤになっちゃうくらい(でもけっしてイヤにならないのよ)繰り返し読んだ本たちである。いずれも、京都での日常とも目的地パリとも何の関係もないし、自分と自分にかかわるあらゆる事どもをどう並べ替えても、これらの本からは何ひとつ連想することがない。今の私と、昨日まで職場に埋没していた私を断ち、加えて、断った私をどこへも連れていかずユーラシアの上空に宙ぶらりんにしておくに余りある効果をもつ本たち。そして、今日までパリの非日常に溺れていた私を断ち、もういちどユーラシアの上空に放り出し、万が一そこで星屑に混じって消え失せてしまっても私自身の中には一粒の後悔も残らないほどパリの記憶から遠く隔離してくれるに余りある効果をもつ本たち。
『九月の空』は高橋三千綱の芥川賞受賞作品である。
小説というもんに精通していない私は芥川賞(に限らないけど)受賞作のよさがいまひとつわからない。何がどうだからこれが芥川賞で、何がダメだからあれは芥川賞でないのか。その違いももちろんわからない。文学賞はそれこそ星の数ほどもあるけど(……ないか。笑)、それぞれの賞の趣旨は違っているようで実は全然違っていないようにも思える。要は面白ければええんちゃうのとつい素人は開き直るのだが、面白いことは最低条件で、なおかつ時を経ても読者を惹き込む力のある小説――後年とある傑作を読みその作品の生い立ちを見ると、あ、受賞作品だった、というような――のことではないかと思う。芥川賞受賞作品と聞いて私が考え込むことなく瞬時に思い浮かべることのできるのは『限りなく透明に近いブルー』(村上龍)だけなんだが、村上作品のいくつかは時代を反映しすぎていて、今読み直すといささか色褪せ感を禁じえないものが少なくないことを考えると、『限りなく――』の力強さはやはり群を抜いているといっていい。
角川文庫『九月の空』には、剣道少年・勇の青春三部作が納められている。『五月の傾斜』と『二月の行方』がなぜ芥川賞ではなくて真ん中の『九月の空』が受賞作品なのか、その理由は私にはわからない。わからないが、五月と二月は当時の社会背景が多少リアルに描かれているために、後年色褪せるかもしれないが、九月は、若干、昔の高校生って純情やったんやねえ可愛い♪な感じはもちろんあるけど、だからって思春期の男女の息遣いやためらいや好奇心の表れに昔も今もたいして変わらないことは、読めば妙に得心できたりするに違いない、だからこのあと何十年もこの作品は色褪せない、と、審査員は考えたのだろう。といったら審査員を褒めすぎか。
主人公・勇は、著者自身を投影したところもあるようだ。勇の生い立ちは、三千綱と重なるところがある。本書だけでなく、裕福だった家が一転貧しさにあえぐ状況となり各地を転々としなくてはならなかった三千綱の少年時代をモデルにした作品が多数ある。三千綱の実父である作家・高野三郎は、見ようによったら、アンタただの親馬鹿やなあ、然とした褒め言葉を息子の作品群に注いでいる(本書・解説)。たとえば、風の匂いや空気感の描写にとくに優れていることを指して、