Le garcon aux yeux gris
2012-05-30



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帰国して一週間が経過したがいまなお時差ボケから回復せず頭も体もぼおおおーーーっとしている。



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『かげろう』
ジル・ペロー著 菊地よしみ訳
早川書房(2003年)


久しぶりにフランス小説らしい小説を読んだ気がする。これはいつか書いた『優雅なハリネズミ』と一緒に借りたんだが、『優雅なハリネズミ』を読むのに思いのほか時間がかかったのに比べてこちらはあっという間に一気読み。そもそも短編(中編? ここらへんの定義はとんとわからん)をむりやりその一編だけで単行本にしたような装幀ではある。
なぜ読む気になったかというと、原題が『灰色の目の少年(Le garcon aux yeux gris)』なのになんで邦題が『かげろう』なんだろうと思ったのと、第二次大戦下の物語であることがカバー見返しを読んでわかったからである。ちょうど無料映像配信で『戦場のピアニスト』を観たのが記憶に新しく、気が滅入るとわかっていても、戦時ものを観たり読んだりしたくなるアブナイ枯渇期というものが定期的に訪れる私である。
私はジル・ペローという作家について何も知らなかったが、たいへんな大著作家であるようだ。解説によると、フランスでは「あの」ジル・ペローがこんな小説を書くのかという好意的な驚きで迎えられたらしい。そういう先入観を少しももたないで読むと、なかなかええとこ突くやんかジル君、ぽんぽん、と肩を叩きたくなるほど、小粋な逸品ぶりに嘆息である。
淡々とした文体だが、いたずらにアップテンポであるとかスピード感があるとかでなく、しっとりとした仏文学らしい湿気を帯びているのが、訳文にもにじみでていて秀逸である。湿り気を帯びながら、それでいて心理的な乾きを感じさせる描写は作家の力量によるところ大であろうが、それを日本語で再現している訳者の力量も相当である。原文と訳文の力関係がバランスを保っているとき、和文を読んでいても仏文が透けて見えるような感じを覚えることがある。今回は、どの箇所かは忘れたが、語り手でもあるヒロイン(若く美しいと思われる人妻)のモノローグに、仏語が透けて見えてなおかつ違和感を覚えた表現が数箇所あった。なんといえばよいのか、全体にフランス小説らしさに満ちながら、細部にフランスらしさを突き放したような表現が織り込んであり、それは原作云々ではなく訳者のスタイルなのであろう。

かげろうは「陽炎」? それとも「蜉蝣」? はたまた「蜻蛉」?
「蜻蛉」といえば優柔不断な薫君が浮舟をうじうじ思う一帖のタイトルである。
いうまでもないだろうがもちろん、本書『かげろう』は宇治十帖とは似ても似つかない。
しかし、とらえどころのない愛する対象のことを、日本語版編集チームがかげろうと表現したとしたら、この「かげろう」は「灰色の目をした少年」のことであるにちがいなく、それなら、束の間の情事の代名詞のような浮舟と灰色の目の少年には通ずるものがあると思えるのである。まさかジル・ペローも源氏物語と比べられるとは思っていなかったに違いないけど。
でも、残念ながら、小説からは「かげろう」という単語を想起し難かった。

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