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『優雅なハリネズミ』
ミュリエル・バルベリ著 河村真紀子訳
早川書房(2008年)
著者夫妻は京都在住だそうだ。とはいえそれは2009年時点での話なので、今もずっと変わらずいらっしゃるのかどうかは知らない。左京区に家まで買って腰を落ち着けたという情報もあるし、著者本人のコメントとして「もうどこにも行きません。世界でいちばん好きな場所に住んでいるんだから」というような台詞が散見される。いいわねえ、よいご身分だわ、本が売れて儲かってそれまでの職を捨てることもできちゃって。なんてひねくれてみせるのはやめとこう。そこまで愛されるまちに住んでいるということを無邪気に喜びたい。
とかく私たちのまちはよその人に愛される。ここひと月ほど、休日平日を問わずまちは観光客と花見行楽客でこれでもかというほど賑わっている。一年前はあんなに閑散としてたというのに。数日前、悲しい事故がよりによって祇園の真ん中で起こってしまったが、一年前だったらこれほど犠牲者を出さずにすんだかもしれないのに、と不謹慎なことを思った私である。事故当時私はとある要人のインタビューのためにとある場所へ向かっていたが、上空を旋回する何台ものヘリコプターの轟音に辟易した。応接室へ入ってもヘリの音は窓ガラスを突き破るかと思うほど大きく響いていた。録音に差し障るじゃないか。私が考えたのはそんなことだった。どうせまたどこかの位の高いかたが御苑へ向かっているのだろう……。要人は奇しくも、京都が愛されるのにはわけがあるんです、だってね……と、我がまちの魅力について切々と語っていたのだが、同じ頃、わがまちを愛して観光に来てくださったかたたちが亡くなったのである。理不尽である。
いっぽうで、わがまちは、けっこう毛嫌いもされる。たぶん、ジモティーがいちばん毛嫌いしてるんじゃないか(笑)。私もこのまちを出たくてしょうがなかったが、先祖代々のDNAは恐ろしいもので、あんなにあちこち旅をしたのに、もはやここ以外で暮らすことはできなくなっている自分にふと気づいたのはいつのことだったか(笑)。京都人はどこまでいっても京都人であることをやめられないから(いや、どこの人だってその点は同じなのだが)どこへ行っても水が合わずになんだか座り心地のよくない椅子に長時間座らされているような、居合わせる人たちとは「間」の悪い会話しかできなくて、あけすけで、ざっくばらんで、歯に衣着せぬ、直球勝負の、正直な人たちってなんてつきあいにくいのだろう(笑)ということを思い知ってスゴスゴと撤退するのである。京都でうまくやっているよその人は、その腹黒い京都人との会話のさじ加減をマスターした人々であり、素直な返事をよこさず考えている振りばかりして本心を見せずに取り繕ってばかりの煮え切らない態度に対して、ストレートな物言いで勝利した人々である。惨敗を喫した人々は四面楚歌に陥り村八分に遭い(申し上げておくがこのかたがたに非はないのである)、よりどころをなくして転出を余儀なくされ、二度と行くかあんなとこ、と悪態をつく。それがわがまちである。
『優雅なハリネズミ』を読んで、私のまちにも、あるやんか、よう似た話、と思ったのだった。下層階級は知性を持つ必要がないけれど、それなりの地位にある人が教養なく下品であることは許されない。成り上がりはその点で不足していることが多々あるので、取り巻きたちはうわべでは褒めそやしてみせるけれど裏では舌を出している。金はあっても礼儀と分別をわきまえない輩(この手がやたらと増殖中だが)は敷居を跨ぐことすらできない世界が歴然とある。じゃあ、教養豊かで礼儀作法もわきまえた知性あふれる貧乏庶民はオッケーかというと、もとより金がないと門前にさえ立てないので勝負にならず最初から問題外である。