A voir!
2012-03-21


以前、ゆうちゅうぶにアップされていたBBCの「津波の子どもたち」という番組クリップ、知らぬ間に削除されたんだけど、でいりいもおしょんで同じものを見つけたので再び貼る。

[URL]
(前にリンク貼った記事内のURLも訂正しました)

ついでにこれもぜひご覧あれ。

[URL]



考えることはいろいろある。
大切なものを喪失した人々の悲しみや辛さ。それは、「悲しみや辛さ」とか「苦しみ」「心に開いた穴」のような、使い古された言葉で表現することいっさい拒む。災害は未曾有の出来事だった。前例がないのだ。したがって、貧困の一途を辿っていた国語の語彙で、彼らの心情を誰であろうと表現できるわけはない。
傍観者は、そのようなやりきれなさすら共有できない。祈るしかないのだろうと思うし、突然生を断たれた人々の冥福と残された人々の心の安寧を念じるしかないのだろうと思うのだけれど、そんなもの祈っても念じても思っても、何も生み出さないという厳然たる事実。



一部の教育機関で、学年度(新学期)を秋始まりにしようという動きがある。私も、自分が高校生、大学生のときから、日本の3月が年度末、4月が年度始め、というこよみに不合理を感じてきた。学年の真ん中に長い休暇(夏季)を置きながら大量の宿題を出しあるいはさまざまな活動をさせて実質休暇とはいえない状況であるとか、最も寒くなる時期に人生をも左右しかねない重要な入学試験を行うとか。
しかし、「3月11日」を経験してからはむしろ、現状維持がいいのではないかと考えるようになった。あの日、地域によっては卒業式や修了式の当日、あるいは前日、あるいは数日前や数日後だった。私たちはこの先ずっと、3月のこの日が近づくたびに身をただし、我が行いを振り返り、亡き人に黙祷し、被災者の未来を祈る。それが、従来の生活の節目とほぼ重なることで、思いは深まり、気持ちが高揚する。
あれほどの惨事を忘れるわけはないと思っていても、人の記憶力なんて残酷なほど脆いのである。梅が咲き、桃の蕾がふくらみ、桜の花芽が大きくなる頃、日本各地で卒業を祝い送る歌声が響く。そのつど、私たちは、いくつもの生活、風土、風景が無残に喪われたことを思い出さないわけにはいかないのだ。
[おもったこと]

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