Qu'est-ce que c'est le terrorisme?
2011-09-16


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『13歳からのテロ問題――リアルな「正義論」の話』
加藤 朗著
かもがわ出版(2011年9月11日)



表紙の装幀はいかにもツインビルを髣髴させるオブジェの写真なのだが、編集段階ではいくつか案があって迷っていたようだ。どこかのブログに書いてあった。

そのブログに載せてあった別の案は、「テロ問題」というテーマを踏まえた場合、いずれも説得力のないように思えた。このテーマと関わりないデザインだとしても、13歳あるいは中学生の関心を惹く表紙になってはいなかった。さらに、頭が固くなって想像力の働かない大人には、どの案でもテロを思い浮かべるのは無理だろう。最終的に決まった表紙の写真は、あたかも破壊された二つのビルを象徴しているように私には思えたが、全然連想できない人もいるだろう。タイトルと、目次などに目を通して初めて、あ、あのテロねと気づく。そういう人が多数派かもしれない。

本書の中で中学生たちが素直に吐露しているが、「テロといわれてもピンと来ない」、それがふつうの日本人の感覚だ。テロというとき、現在の日本人が真っ先に思うのはグラウンド・ゼロ、すなわち同盟国である我らが友人アメリカ合衆国様が多大なる被害を受けた「あの」同時多発テロであろう。その次には、いわゆるパレスチナ問題に思いのいく人が多いのではないか。自爆テロといえばそれはパレスチナ人がイスラエル人を道連れにして殺す手段の代名詞である。

本書ではこのほかにアフガニスタンのタリバンによるテロなどが例示される。古くはたった一人を狙った暗殺もテロだった。テロは体制に反感をもつ者が自己主張をするための暴力的手段である。時代を経てそれは大掛かりになり、本当に殺したい個人を狙うのではなく、国家や政府が対象となるために「暗殺」では追いつかないから、何のかかわりもない無辜の市民をいわば人質にして、多数巻き添えにして命を奪うというパターンになって幾久しい。

本書の中では、テロという行為にある二面性について真剣に議論されている。ビンラディンの主張の正当性は、米国から見れば極端な原理主義による狂気に過ぎず、米国が振りかざす正義や民主主義は、ビンラディンあるいはアルカイダあるいは一般のイスラム教徒たちにとって権力者の寝言にしか聞こえない。双方が自身を正義もしくは神の意思の遂行者と信じている。それによる行動をテロと呼ぶとき、テロは誰による、誰にとってのテロ(恐怖)なのか。オバマ政権があっさり有無を言わせずビンラディンを銃殺してしまったが、この行為も向こう側(パキスタン、イスラム教徒)から見ればテロである。

表と裏にはそれぞれ言い分がある。

神の名のもとに、悪者を成敗したのだ。

どっちも、そう言う。

愛する者を殺され、許せないから復讐した。

どっちも、本音だろう。

神の名のもと、正義の名のもとであれば武力に訴え人を殺してよいのか。
中学生たちに答えは出せない。
もちろん加藤氏にも、出せない。

本書の企画のために、実際に、加藤氏が中学3年生を相手にテロをテーマに授業をしたそうだ。丁寧に編集されているのを感じるが、また、中学生も先生も非常によく考え抜いたようすが窺えるのだが、どうもその臨場感がいまひとつ伝わってこない。思いのほかいいことを言う中学生たちであるし、また素直に考え抜いて発言している。わからないことはわからないと言う。わからないままにせず必死で考えてもいるようだ。それは透けて見えなくもないが、たぶん現場を共有した加藤さんほどには、読者は議論の内容に共鳴できない。それは、この問題が考えれば考えるほど堂々巡りになり永遠に答えなど出せそうもないということが早くに露呈してしまっていることにも原因はあろう。だが、もう少し誌面のつくりや編集方法に工夫がされていたら、とくに中学生くらいの読者は出席者に共感を覚えつつ読み進むことができるのではないだろうか。

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