2011-01-12
『適当な日本語』
金田一秀穂著
アスキー新書(076)(2008年)
たいへんよくできた本である。
日々、何がしかの文章を書いている人に一読をおすすめする。
あなたの書くのがケータイで送るメッセージにせよ、取引先に送るクレームにしろ、上司へ提出する報告書であろうと、長い長い恋文だとしても、誤字や誤用は一気にその文章の価値を奈落の底へ突き落とす。
これはほんとうであるぞよ。
私は毎日膨大な量の文章を書くが(いわゆる仕事上の文書も、原稿も、友達への手紙もメールも、ほいでもってこんなブログも)、同時に膨大な量の文章も受け取るし、新聞も毎日読むし、文献にも目を通す。そういうもんの中に誤字誤用を発見するとやはり相手や出版元を「そういう目」で見てしまう。
マイブログでもよく書くが、私が仕事でかかわる人たちって、ほんとに、ちゃんと書けない。年齢は関係ない。また学歴や職歴も関係ない。
賢そうな御仁がことわざや慣用句を誤って使う。軽薄な営業担当が若者ぶって略語だらけのメールをよこす。いつも誠実で丁寧なもの言いの婦人が敬語のむちゃくちゃな連絡FAXを送ってくれる。知的で名の通った新聞の記事に変換ミスが散見する。
共通しているのは言葉を軽んじていそうな態度であることだ。
その文章を差し向ける相手を軽んじているわけではない。(だから厄介なのよね)
言葉を真摯な気持ちで扱う人が少なくなったといっていいのだろう。
ここ数年、テレビ番組のネタにも漢字や言葉を問うクイズが増えてきたように見える。くだらないテレビのネタにされることこそ誰もが本気で向かい合おうとしていない証左だ。
「通じたらええやん」とはウチの娘がよくいうのだが(笑)、それが通用するのは、けったいな英語で外国を旅するときだけなのよ。
間違いは誰でもあるのだし、間違えたときに学習すればいいのだけれど、最近は人に対して間違いを指摘したりしにくい風潮が世に蔓延している。上司も教授も、部下や生徒を「傷つけてしまうのが心配」で、バチッと指摘できないでいたりする。小中高の教師陣はもはやご本人たちがあまり言葉をご存じない。とほほ。
だから、言葉は、自分で正しく覚えて、少なくとも自分だけは正しく使いたい。みんながそう心がければ、正しく使える人が少しは増えないかな。ま、ここまでたいそうに考えずとも、言葉をきちんと使いたい、きっと誰でもそう思っているのだ。けれど、え、これってどっちが正しかったっけ? みたいな紛らわしい同音異義語や類義語はもともとあるし、昨今いい加減な用法がまかり通って通りきっちゃった挙句正しいと認識されているケースもあって、実際判断に困ることもよくあるのさ、という真面目な人はたくさんおられるのではないか。
金田一先生はカタイことはおっしゃらない。
書名の『適当な』は、「適切な」と「いい加減な」の両義をもっている。で、この題名も両義を含むとおっしゃる。
言葉は生きものだ。だから杓子定規に考えずに、寛容に言葉と向き合いたい。眉吊り上げて正しい本義をまくし立てるばかりが、「正しい日本語を守る」ことにはならない。その意味するところがゆっくり変わってきた言葉もあるし、時代が変わったからといってやはり誤用はどうしても認められないと思われる言葉もある。
言葉の遣いかたって、身に着ける衣類に似て、その人の好みや性格を映す。立ち居振る舞いやしぐさ、食事の際の行儀に似て、その人の育ちかたや学びかたを映す。それらは全部、ごく初期には親から譲り受けたり躾けられたりするものに属する。「親の顔が見てみたい」というが、その人の言葉遣いに親は潜んでいる。言葉は母だもんね。しかし服の好みが親子で異なることがもちろんあるように、親の影響から脱して自分の言葉遣いで生きていくことは可能だし、それは試みなくちゃいけない。だって若人たちよ、あんたたちの親世代ってほんまにアホやねん。乗り越えな、あかんよ。
若人って、わこうどって読むのよ。覚えてね。
で、本書だが。
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