就寝前の寝言(ん?)
2010-10-21


なんつーか……あのひとたちにとって、日系企業の店舗や製品を破壊するとか火をつけるとか(つけてないか?)、日本を鬼と呼んだり滓と言ったり(ゆってないか)するとかいうのは、たぶん年中行事っつーか、お祭りみたいなもんなんだろうなあ。なんであの国にはこっちの岸和田のだんじりや鞍馬の火祭りとか、それになんだっけ、勇壮なお祭り、日本にはたくさんあるじゃん、そういうのがないんだろうね。あるのかな。誰か知ってる? あればきっと、そういう祭りで憂さ晴らしもストレス解消もできるだろうに。ユーチューブで見る限り、デモやってるとか抗議行動をとっているとかいうよりは、やっぱ単なる鬱憤晴らしにしか見えないよね。そこが痛いなあ、あの国も。もうちょっと真剣味があれば双方もう少し真面目に取り組むだろうけどイマイチなもんだから双方ともに「ちっクソガキらめ」みたいな対応しかしないんだろうね。

それにしても、豊かになったんだね。
私が旅した頃のあの国は、ほぼ全員が薄汚れた人民服を着ていた。身なりのいい子は軍服を着ていた。男女とも。女の子は腰の位置が高くて、すらりとしていて、長い髪を固い三つ編みにし、前に赤い星のついた軍帽をかぶって、軍靴をカツカツいわせて道を横断し、友達に会えば「アイヤーッ」と挨拶し、でなければ必ず数歩に一度はかあああーーーーっぺっと道に痰を吐いた。それがエリートの証であるかのように。
人民服の人が少なかったのは唯一広州だけだった。どの町ででも、老若男女問わず、紺かくすんだ緑、カーキの人民服またはそれに準じた型の服を着ていた。広州の人がお洒落だったわけではない。人民服ではなかったというだけだ。
私は当時流行っていただぶだぶシルエットのトレーナーを着て、膝丈のパンツにバッシュといういでたちだったので、誰がどう見ても、現地人には見えなかっただろう。

広州から桂林へ行くバスに乗り合わせた男性が、ぜひウチへ泊まれと言ってくれて、怖いモノ知らずの私と弟は喜んでお世話になった。奥さんとまだ2、3歳の女の子と、本人か奥さんかどっちかのお母さんと一緒に住んでいた。桂林は一大観光地で、観光客が国内各地、それと外国からも来ていた。彼は私たちのために現地人用の遊覧船の切符をとってくれて、自分や奥さんの上着を貸してくれて、話しかけられてもわかんない振りをしろ、あんまり執拗に何かいわれたら自分らは北京の者だといえ、そしたら相手は黙るから大丈夫、外国人とはバレないよと送り出してくれた。同じ方法で、桂林から次の訪問都市への列車の切符もとってくれた。口元にチョビ髭を生やした、そうだな、誰だろう、ああ、あれだ、似ている俳優がいるんだけど名前が出てこないよ。

昆明から成都へ向かう列車の中ではおばちゃん二人連れと座席を乗り合わせ、よくわからないまま私たちはいろいろ根掘り葉掘り聞かれ、泊めてはあげられないけどご飯一緒に食べようということになり、成都での二日めの昼食をおばちゃんたちの家にお世話になった。水餃子だった。それはもうものすごい量で、御馳走になったのは昼飯という設定だったが、夕方まで食べ続けていて、当然ながら晩ご飯は食べなくてもよかったのだった。おばちゃん二人のうちの年配さんのほうに15歳くらいの娘さんがいて、その子が私たち二人を兄さん姉さんと、わずかな時間の間ずっと慕ってくれて、私も弟もいけ好かない姉や弟でなくこんな可愛い妹がいればどんなにか毎日が楽しかろうと思ったもんだった。
若いほうのおばちゃんの旦那さんという人が鉄道員で、成都から次の訪問地までの切符をこれまた家族価格でとってくれたのだった。この人は、若い頃のフォーリーブスの今は亡き青山孝にそっくりだった。


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