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けっこうええおとこ。
『ボオドレール 悪の華』
シャルル・ボードレール著 鈴木信太郎訳
岩波文庫(2000年/初版1961年)
なんでかわかんないけどアタマ痛い……すごく痛くて今日はぜんぜん仕事にならなかった。頭痛はしょっちゅうなんだけど今日みたいに激痛が収まらない日は、それほどしょっちゅうではない。こういう時って思考不可能だから思考しなくてもいいことにばかり、思考が走る。走るけど、仕事しない、思考。
家の本棚の隅っこにあったボードレールの詩集を職場のデスクに置いている。なぜそんなものをそんなところに置いているかというと、こういう、思考が思考の仕事をしないときに、ぼーっと眺めるのにうってつけだからである。なぜ自分がこの詩集を持っているのか実は私にはもうわからない。この本が欲しい、読みたいと思った記憶はない。誰かに贈られた記憶もない。だいいち誰も贈らないだろ悪の華なんて、と思うし。
旧字旧仮名遣い表記なので、読みにくいことこのうえない。不思議なもので、これが日本人作家や著述家の書いたオリジナル日本語文だと読むのはちっとも苦にならないのだが、紅顔毛唐碧眼の輩(←よい子の皆さんはこんなこと言ったり書いたりしてはいけませんよ。ほほほ)の文章の翻訳が旧字旧仮名遣いになってるとまるで宇宙語のようである。まだ漢文漢詩のほうが意味が伝わる。
頭の中で、昔よくあった(いまもあるのか?)灯油缶みたいなのを曲がった金属バットでガンガンガンガンと、頭の内壁にくっつけて打たれるような、不愉快な痛みと耳鳴りが続くようなとき、本書の、旧字旧仮名遣いの、小難しさのファッションショーのような詩文を目で追う。そこには書き手の苦悩とか思想とかが見え隠れするはずだが、見えていようが隠れていようが私にはまったく読み取れない。が、『悪の華』は十分にここでの役割を果たしてくれている。とりあえず難しい字の並んだ本を読んでいると、さぼっているようには見えないし、時たま、あらそうねホントねナットクだわ、と共感する詩に出会うこともある。
憂鬱
市(まち) 全体に 腹を立てた 雨降り月は
隣の墓地の 蒼ざめた亡霊どもには 暗澹と
した冷たさを、また霧深い場末の町には
死の運命を、甕傾けて 肺然と注ぎかける。
わが猫は 床石の上で 寝床の敷藁を探して
絶えず 疥癬の痩せた体を揺すぶっている。
老いぼれ詩人の魂が 寒がりの幽霊のやうな
悲しい声をたてながら 雨樋の中を うろついている。
寺院の鐘が泣くやうに鳴り、燻った薪が
裏声で 風邪をひいた柱時計に伴奏する、と、
こちらでは、水腫(ぶく)れにむくんで死んだ老婆の遺品(かたみ)、
厭らしい匂ひの染みたトランプの札の、
ハートのジャックの色男と スペードのクヰンの二人、
返らぬ昔の恋愛を ぼそぼそ陰気に語つてゐる。
(222ページ)
(旧字は現代字に改めた。以下同)
この詩集には「憂鬱」と題された詩が連続して4編収められている。
二つ目の憂鬱。
(……)
雪の降る年々の 重い粉雪にうづもれて
陰鬱な 探究心の喪失から 生れる果実(このみ)の
倦怠が 不滅の相を帯びながら 拡がる時に、
蹌踉(そうろう)と過ぎてゆく月日より長いものは 何もない。
(……)
三つ目はつまんない。
四つ目の憂鬱。
(……)
〓〓さうして、太鼓も音楽もない、柩車の長い連続が
わが魂の中を しづしづと行列する。希望は、
破れて、泣いてゐる。残忍な、暴虐な苦悶は
わがうなだれた頭蓋骨の上に 眞黒な弔旗を立てる。
*