「コラボ」って、余所ではあまり言わないでね
2010-07-04


『ボッシュの子
 ナチス・ドイツ兵とフランス人との間に生まれて』
ジョジアーヌ・クリュゲール著 小沢君江訳
祥伝社(2007年)


痛そうなタイトル……。
毎日蒸し暑くて、じめじめしてて、何するにしても意気上がらない日々にこんな本を読むとますます気が滅入る。といっても内容にケチをつけているわけではない。
漠然と承知していたはずの事柄だったけど、今さらな感じで事細かな明細書を突きつけられ、その悲惨項目を一つずつ確認してチェックマークつける、というか認印を捺印させられるみたいな、暗澹たる思いのまま読み終えねばならない。文章は淡々と、ああだったこうだったと事実を述べている。「あまりに淡々としていて却ってそら恐ろしい気分になる」といった類の文章ではない。淡々と書き綴ることに何の効果も求めていない。むしろ、著者はありったけの感情を込めてもいる。しかし、そこはおそらく書き手としては素人なので、表現にあまり工夫がなく、肩透かしを食らうというのか、へ、それだけ?みたいに盛り上がりに欠けたり、読者を欲求不満の溜まりに置き去りにしてさっさと次のトピックに移ってくれたりする。
この本は、読者をある種の世界に誘(いざな)うとか、読者に何がしかの分野に関心をもってほしいとか、何も要求していない。ただ、今まで黙っていたけれど語る気持ちになったから語ります。そういう姿勢だ。ナチス・ドイツ兵とフランス女性の間に生まれた「禁じられた愛の結晶」たちはフランスに20万人いるそうだ。周囲から白眼視されたまま悶々と生きていた彼らに、ようやく、戦後60年という時間が、ようやく語りたいという気持ちにさせた。著者ジョジアーヌ・クリュゲールはそのひとりなのである。

ちょっとワタクシゴトに逸れるが、留学時代、間借りしていた家はユダヤ系フランス人とドイツ人のカップルだった(破局したけど)。そのユダヤ系フランス人のジュディットは、自分の両親がパートナーのことを良く思ってくれないのは「彼がドイツ人だからというのが大前提にあるのよ……彼の責任じゃないのに」とため息をついていた。
現代の、《戦争を知らない子どもたち》の恋愛にさえ「かつてナチスが存在したこと」は暗い影を落とす。
ドイツ人であることは彼の責任じゃない。それ以上に、仏独カップルの間に生まれた子どもに、その出自に関する責任はない。子どもには出生地も親も選べない。しかし出生地や「親が何者であるか」によってその処遇が理不尽にも左右されることの、どれほど多いことだろう。そんな例は私たちの身近にも嫌というほどある。

本書は、好んでそんな境遇に生まれたわけではないのにそんな境遇のせいで人生の歯車が老いるまで噛み合わなかったある女性の半生の記録である。

著者はとかく男性とうまくいかない(誰かさんみたいだよ)。
著者の母親は戦時にドイツ兵を愛した。そのことをけっして恥じてはいない(と著者は思っている)のだが、自分の口からそのドイツ人のことはついぞ語ったことがなかった。娘にも隠し通し(隠しきれてなかったのだが)、後ろ指をさされても陰口を叩かれても、知らぬ存ぜぬを通してある意味毅然と振る舞った。そのこと自体は悪くはなかっただろうが、娘は母がどのように人を愛したか、なぜ、どんなふうに父と出会って愛するようになったかひと言も聞かされることはなかった。母親はただ黙って働き続けた。そして、ある日突然フランス人男性が現れて家に居座るようになり、あっという間にぼこぼこと、著者にとっての異父兄弟たちが生まれた。母親は、お母さんに恋人ができたのよ、とか赤ちゃんが生まれるのよとか何もいってはくれなかった。ただ事実が目の前で説明されないまま展開されていき、著者にとって非常に居心地の悪い家庭が形成されていく。
著者は14歳で家を出て働き始める。

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