「コラボ」って、余所ではあまり言わないでね
2010-07-04


母親が、あなたのパパは素敵だったわとか、新しいお父さんはこういう人なのとか、あるいは青春時代の異性との出会いとかについて少しでも娘に語っていれば、著者はもう少し器用に恋愛できたんじゃないかと思わなくもない。当然、著者にも恋が訪れるが、不器用すぎてどうすればよいのかわからないのである。

また、新しい伴侶との間の子どもたちと著者との関係は非常に険悪なのだが、そこは当人たちにはあまり理由も責任もなく、母親が仲介役をまったく果たさなかったせいなのだ。

帰る家もないに等しい。
著者は、アレックスという男性と出会って結婚する。だがそれも、彼が生涯の伴侶だと思ったというよりは、自分だけの家庭をもちたいという気持ちが先行したのだ。アレックスとの間に男の子が生まれるが、アレックスとは離婚に至る。そののち、マイクと出会って暮らしを共にするが、最初から負け戦、つまりいつ破局してもおかしくないような暮らしかたではあった。しかしそのマイクが力を尽くしてくれたおかげで、ドイツ兵だった父の、在ドイツの家族と連絡がとれるようになり、彼らとのかかわりが思いのほか幸福な方向へ進むのである。このことはジョジアーヌにとっては奇跡に近い福音だった。なのに、そのきっかけをつくってくれたのはマイクなのに、彼との間には子どもも生まれるのに、不幸な破局を迎えて終わってしまう。

著者は、近隣の住民から、学校の教員から、クラスメートから、ドイツ人の血を引くというだけで罵倒され蔑視される。温かい目を向ける人もいなくはないが、十分ではない。学校で一番の成績をとることができたから、それまで暴言を投げていた教師も黙るようになったりするが、とにかくいつも著者は孤独だ。
子どもに「K」で始まるカールという名前をつけたとき、看護師や周囲から名前の由来を聞かれて「私の父はドイツ人ですから」ときっぱり答えたとき、相手の目の色顔色態度が大なり小なり変わるのを目の当たりにしたが、もうその頃には、ドイツ兵が父であることのハンディキャップを自虐的に楽しむようになっていた。

著者の母親はドイツ兵と愛しあった2年間を封印し、開示することなく闇に葬り去ると同時に、自分自身も目を外へ向けようとはしなかった。戦後、長い長い時間をかけて、世の中の「常識」が変移していき、かつての偏見も少しずつ影を潜めていく。しかし、母親にとって禁じられた愛は永遠に禁じられたままであり、その結果としての娘(おそらく父親似である)の存在は、たぶん疎ましいばかりだったのであろう。彼女は何もいわないまま亡くなった。

著者のような人々にようやく光が当たるようになり、語る人々が出始め、テレビが取り上げるようになると、にわかに世界が動く。20万人の「生まれるべきではなかった」子どもたちにようやく、自身のルーツを求めてドイツを訪問したり、父親の墓参をしたりということが許されるようになった。

本書は小説ではない。事実と著者の気持ちが時系列で綴られているに過ぎない。実に正直に、飾り立てることなく語られている。物語性は考慮されていないので、物語と思って読むとつまらない。第二次大戦が仏独に遺したいくつもの大きな傷跡の、ひとつの形の、一例である。



街を歩いていると、「コラボ」という名のカフェがあった。「COLLABO」と綴られていた。それを見てフランス人が仰天した。日本人の私たちは長たらしい外来語をよく略したり縮めたりして用いる。コラボレーションのことをコラボというのもそのひとつだ。
「それはもちろん、わかるよ。フランス語だって同じさ。でも、ことこの言葉に関していうとさ、collabo、とだけいうと、それはナチ占領下の対独協力者の意味にしかならないんだよ。僕らのような戦後の世代だってcollaboという語を見るとぎょっとする」

「コラボ」という語は「ボッシュ」(ドイツ野郎=ナチ野郎)という語と同じく、強い敵意を含んでいるのである。


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