出会えてよかった本だってちゃんとあります
2010-05-29


『士魂商才』
武田泰淳著
岩波現代文庫(文芸18/2000年)


手当り次第に本を漁っていると時々思いがけない大きな拾いものをすることがある。服のバーゲンなんかと同じで、Tシャツのいいのがあれば買うのもありかな程度の気持ちでセール会場へ行きワゴンをひっくり返す勢いで漁っているとTシャツではなくて洒落たチュニックが出てきておおおこりゃあよかよかと買ってしまう、というのに似て(違うかな)、たとえばある作家の短編集の内の一編が非常に評判だがきっと大したことないさ、でも読んでみようか気になるし、くらいで繙いて、当の一遍はやはり大したことないけど他の短編はすこぶる良い出来である、みたいなパターンがけっこうある。これって、期待して読んだ本が期待どおりに面白くてためになったというケースよりも何倍も実は嬉しい。

本書もそういう類いの一つで、なんだって武田泰淳を今読んでんのと訝るかたは多かろうと思われるが、それもこれも水俣のおかげなのである。

水俣病のことを追いかけていると、関連文献のひとつとして必ずどこかで目にするのが『鶴のドン・キホーテ』という小説の題名だ。
「ドン・キホーテ」だなんて、文学作品のタイトルというよりはもはや激安の殿堂としてのほうが今の日本では通りがいいだろう。「鶴」にいたっては説明など不要であろうし、つまりは珍しくも何ともない鳥の名と限りなく普通名詞化した固有名詞がくっついて、こんなに据わりの悪い、はっきり言ってダサイ題名ができ上がっている。
いったいこれがなんだって水俣と関係あるというのか。
……という疑問が生じたのでこれは読まねばならぬと決めて、探したのだった。

『鶴のドン・キホーテ』は武田泰淳という作家の『士魂商才』という短編集に収められているというので、『士魂商才』を借りた。

本書のなかで私が最も「これはいい!」と思ったのは著者のあとがきである。ちょっとそこの人、コケないでください。本編よりまえがき、あとがきのほうが面白いというのは批評文やエッセイ、学術書にはよくある話だが、純然たる小説本では珍しい。つーか、あまりないほうがよい話ではある。あとがきがいちばん面白いなんてゆってしまったけれども、それは私の受けとめかたにすぎないので話半分と思ってもらいたい。まさか、あとがきが優れているという理由だけで、「本書との出会いが嬉しい」などとはけっしていわない。もちろん、小説も、短編だがそれぞれがたいへんよいのである。

借りてすぐ、『鶴のドン・キホーテ』をまず読む。う。なんだこれ。

武田泰淳は、なぜ日本の小説には産業人を描いたものがないのだろうと自問してこの『士魂商才』を書き上げるに至ったという。であるからして、ここに収められている短編はどれもがある企業の創業者や経営陣を背景に、現実に今うごめいている人々の姿を描いている。短編なので、いずれもコンパクトで無駄がない。一企業の偉大な創業物語なんてジャンルにはとかく辟易するが、本書の短編はある一面を切り取ったり、意外な角度から照らしたりしてあるので、面白い。外国人女性の描写などは時代がかっていてべつの意味でユーモラスだ。

しかし、『鶴ドン』はちょっとおもむきが異なる。うまく表現できないが、産業人を描いた話ではない。戦争の傷をそれなりに負った主役級3人の人間模様である。
この3人が、戦後再会するのが「M市」すなわち水俣市である。

この短編集は1958年に文藝春秋から発行されたものだそうだ。
1958年といえば水俣病患者がぽつぽつと公になっていた頃だ。

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