2008-10-08
で、就職試験には落ちまくってしまう。「面接シミュレーションにも抜かりはなかったのに、どうして……」
合格して晴れて入社できる子もいる。でも、入ってからついていけなくなって辞めてしまう。「この会社ではやりたいことが見つかりそうにない(と思うことにしよう)」
かくして、どこにも就職できない学卒、院卒が巷にあふれ、ニートになり引きこもりになりそして……というのが今の世の中であるらしい。
私は取材で子どもたち、若い人たちにも会う。
児童、生徒、現役の学生たちも、公務員、会社員、職人もいる。若くして起業した人、雇われ店長、大店のボンボンも。「いい子」や「素晴しい若者」には会うけれど、「どうしようもない悪童」「始末におえない不良」には会えない。そりゃ、取材対象に選ぶんだからそんなひどいのに当たるわけないんだが、いいたいのは、規格からはみ出るような「奔放さ」を感じる人物に会えないということだ。
お行儀がなっていなかったり、敬語の使い方が変てこだったりするけど、外面を取り繕う要領は心得ているといった感じの子ら。そういうのが多い。
服を裏表に着ちゃったりしているが話せば考え方がしっかりしていて、芯の強さがひしひし伝わってくる子ら。口調も目の輝きも希望に満ちているかのようにいきいきしている。なんてのは、いない。
もう4、5年前になるが、有名進学校の中3生に将来の夢を訊ねた時に、「べつにない。人に迷惑かけないで普通に生活できれば」「○○(←職業名)かな。そこそこ安定してるし」「△△(←超有名企業名)とか、リストラとか倒産のなさそうなところの会社員」というような答えが過半数を占めたのだが、私にとってはたいへん衝撃的な事実であった。
希望ってないの? そんなふうに思わず聞き返したら、「だから、それが希望ですけど」とか(苦笑。あ、そーか)「あえていえば□□(←カタカナ職業名や多国籍企業名)かなあ」とか。同行したカメラマンは「もう中3でしょ。そりゃあ野球選手とか歌手とかはいわんでしょ」。そりゃそうだけど、もう少し、なんというか、夢物語みたいなことを話してくれてもいいじゃないかと思ったのだ。実現可能性の有無や大小は抜きにして。
希望って、漠然とした、目に見えるけどつかめない霧のような、すくえるけどこぼれる水のような、実体のないものだ。三木清は『人生論ノート』の「希望について」の章でこういっている。
人生は運命であるように、人生は希望である。
本書に論文を寄せているある著者は「希望を持とう」という。希望を持つことから始めよう、将来の青写真を描こう。もちろん、そういう具体的な「目標」「目的」も希望の範疇に入るのだろう。
けれど、希望って、なんとなく「ある」ものだ。「○○してみたいなあ」の「○○」にあてはまるもの、それは何であれ、希望である。生活には、人生には、いくつもいくつもの「○○」がつねに在る。ラーメン食べたい、テストでいい点取りたい、彼と話したい、シャネルが着たい、医者になりたい。ああもしてみたい、こうもしてみたい。
欲望や願望は希望のひとつの在りかたである。
何でもいいからいつも何か望みをもつ。望みを叶えたいと強く思う。今日は、どうしても、カレーが食べたいんだよ! だが望みは叶うとは限らない。断念しなくてはならない時もある。わかった、今夜は諦めるよ……。そういった感情の起伏、気持ちの抑揚をつねづねもつことが、事はカレーじゃなくもっと大きな岐路に立った時にはっきり行くべき道を選べるような判断力も養うと、思う。人生が、希望に満ちたものになると、思う。
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