『希望学』
玄田有史 編著
中央公論新社(中公新書ラクレ/2006年)
しんどいときは、希望について語ろう。
てことで、鹿王院知子さんもはまっている(笑)我らが希望学の玄田さん再登場。
このあと、支離滅裂な私の駄文を読まずにここへ行ってくだされば、希望学の何たるか、は把握していただける。↓
[URL]
本書『希望学』を読むのは面倒、という人は:
関連記事を時系列に並べたここ ↓
[URL]
本書『希望学』を読んだ人の感想文を集めたここ ↓
[URL]
へ、行かれたし。
先日、またしても貴重な貴重な(×10の10乗)休日をある取材でふいにされたのだが、その現場で、玄田さんのフィールドワーク先である某社の方が講演をされた。
その日は何人もの講演を聴講したが、専門用語を連ねるだけとかお経読んでるようにしか聴こえないとかパワポで掲示してる内容を読み上げるだけとかとにかくしゃきっとしない大学人たちに比べ、企業人たちのお話は声も大きく、ヴィジュアルの使い方にも長け、本論に「我が社ならではのマル秘エピソード」をさしはさむなどのテクニックなどにも勝れて非常にわかりやすかった。ええ、ほんとに。
よほどの例外を除いて、大学教員さんたちの話はわかりにくい。大学という世界しか知らない人にありがちな、「皆さんもうすでにご存じですけども」のマクラコトバが念頭にあるので「すでにご存じ」の「皆さん」さえわかればいいという喋り方になる。アホウめ。みんな知らないからここに来てんだよ。聴いてほしいのかよ、ほしくないのかよっ。ちったあ社会勉強してからその偉そうな肩書つけろっての。
玄田さんもそうだが、企業とうまくコラボしながら研究している方々は、企業人からよい影響を受けるのかそもそもそういう素地をお持ちなのか、総じて話し上手である。講演は楽しく聴けてためになり印象に残る。対談などではそのまま活字化して差し支えないような明快な語彙と発言で記録者を喜ばせる。
その日は、例の某社をはじめとする錚々たる大企業の方々が、早い話が「出身大学名や学部名に信頼が置けなくなっている」(いったい何を勉強してきたのか、どうして卒業証書や修士号を得られたのかわからないようなレベルの低さ)、「どうせ一から鍛えるのならば高卒を採用したほうがいいと思えるほど」(漢字やレポートの書き方、分数の計算方法を、どうせ教えなければならないのなら高卒のほうが教え甲斐がある=飲み込みが早い)というような事態であるから、大学さん、もっと学生を鍛えてくださいよ……という内容の講演というよりは悲痛な訴え(笑)をなさったのであった。
高校では、故意にしろ偶然にしろ履修科目が著しく減っているので、まともな高等教育を受けたとはいえないまま高校生は卒業する。そして「推薦」「一芸」「AO」などという名の「入試」を経て、少子化でとにかく学費払ってくれれば誰でもいい、と門戸を広げた大学の大学生になる(これ、有名一流私大の現状である)。イマドキの大学生はサボって合コンやバイトに耽ったりしない。真面目に授業に出て単位を稼ぐ。取ったほうが就職に有利といわれる資格はすべて取る。遊ばないけど、「学問する喜びに耽る」「疑問難問を追求し続けて夜を明かす」なんてこともしないのである。次のステップ(就職)への最短距離を進もうとする。
最短距離を行こうとするけど、そのむこうに、小さな頃から抱いてきた夢とか、はっきりした目標だとか、何年後かの自分の姿のイメージなどというものがあって進んでいるのではない。淡々と、非常に省エネな「最小限の努力」をはらいつつ、あわよくば「やりがい」にぶつかればいいな、そんな感じで日々、歩んでいる。