賞味期限のごまかしを云々する前に(続)
2008-01-31


前エントリの続き。

本書を読んで、「うわーこれアタシだっ」とグサグサ来たのも事実だが、やはり「うっそー」と驚いたことも少なからずある。その中の最たるものは「家族の行動がバラバラ」だということだ。家族構成員が全員大人で、それぞれが自立して各自責任をもって行動しているということでは、もちろんない。まだ幼少の子どもがいる家庭ですら、そうなのである。

前回、クリスマスツリーやケーキをきょうだいの人数分用意する家庭があることに触れたが、喧嘩にならないように用意することは、たしかに悪いことではない。だが著者が重要視しているのは、「ほかの誰かと協力して何かを作り上げる」機会を親が積極的に奪っているという事実である。

ウチの娘がまだ小学校低学年だった頃、地域のイベントとしてクリスマス会やひな祭り会があり、ケーキのトッピングは子どものたちの喜ぶメインイベントとして用意されていた。しかし、六〜十人で一つの班を作って、協力して飾りつけ、出来映えを競うというものだった。大騒ぎである。喧嘩もする。クリームだらけになってワイワイ騒ぎながら、それでも自然とリーダーシップをとる子が現れ、子どもたちそれぞれの作業の得手不得手が明らかにもなる。アイデアを出し合ってきれいで美味しそうに飾ろうとする。私の覚えている限り、もんのすごおいケーキばかりだったけれど、食べたら同じさといわんばかりに、子どもたちは上機嫌でそうしたイベントを終えるのである。

だが本書によれば、親しい家庭どうしが集まって開くパーティーなどでは必ず一人に一個、トッピング用のケーキを割り当てるという。これは現在の主流なのだろうか?

そして語られている家庭の多くが、朝食も夕食もバラバラに摂っている。もちろん事情はあろう。平日はお父さんが早く、きょうだいそれぞれ学校が異なると出発時間が違うので、朝食はバラバラになる。しかし、まだ5歳や6歳の子どもたちでさえ、休日は寝ている親より早く勝手に起きて、それぞれ冷蔵庫から惣菜パックなどを出して食べたりしている、という状態を、家族のそれぞれがこうして自主性をもって一人で行動することはいいことだというふうに肯定的にとらえる傾向が強いのには閉口する。こういう家庭では、正月、クリスマスに限らず家族の誕生日など「みんなで食べる」機会にも「それぞれが好きなものを飲んで食べている」。個性や個人の趣味嗜好を重視するのはけっこうだが、何か違っているように思えてならない。
そのように幼少から「勝手に」「自由に」「一人で」振る舞うのを当然として育った子どもが大人になったとき、協調性が欠けるとか、堪え性がないとか、人の意見を聞かないとか非難されたりしても、その子のせいではない。そうしたことが原因で大きな不祥事にでもなったとき、その責任を、親は取れるか?

本書には、家族はバラバラだけど、携帯でちゃんとつながってますからといった主婦(小学生の親だったと思う)も登場する。このひと言はショッキングであった。そうか、それほどまでに携帯は重要なんだ。命綱なんだ、イマドキの家族の。
便利なツールであることは、私だって否定しない。
高校生になったら持たせてね、という我が娘や、ダメダメ選挙権と同時だよ、なんていう私自身などはすでに過去の遺物として珍重されるに違いない。

もう一つ、なるほどと思ったことは、インタビューに答える主婦たちの言葉の乱れである。それはもう、凄まじい。笑える。
若者や子どもの言葉の乱れ、国語力の低下がいわれてもう幾久しいが、私たちはたしかに、「元・言葉の乱れた若者たち」だったし。カタカナ語を連発する官僚たちはほぼ同世代だし。こんな私たちに育てられた世代がきれいな日本語を使えるはずがない。
言葉遣い(だけではないが)が、子どもじみているのである。


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