2008-01-08
別の日には、信号を待っていた家族連れらしき集団から、ひとり3、4歳くらいの男児がいきなり後ろへ(車道とは反対方向に)飛び出して、舗道をゆるゆると自転車ころがしていた私は慌てて急ブレーキをかけた。もう少しスピードを出していたらぶつかるところだった。一緒にいた親が驚いて振り向き子どもを抱き上げ「危ねえな!」と私を睨みつける、とかなら、まだいいのである。その子の父親(たぶん親だと思うのだが)は、私の自転車の急ブレーキの音には反応しなかった。ぼけえーっと私を見上げるその子に私がかけた「だいじょうぶ?」の声に「ん?」てな感じで振り向いて、「自転車、来るよ」とその子にいっただけだった。
公園で子どもを遊ばせておいて、ファミレスで子どもがそこらじゅうこぼしまくって食べてる横で、スーパーの売り場で子どもが勝手に商品をいじくっているのに目もくれず、自分はケータイの画面から眼を離さない。そんな親は毎日何人も見る。
表出の仕方はさまざまだが、みな同類だ。
なんでみんな、子どもの手をつながないんだよ?
なんで、子どもから眼を離すんだよ?
手をつないで導いてもらえない子ども。同じ目線で語りかけてもらえない子ども。ケータイを見る「ついで」にしか視線を投げてもらえない子ども。
こんなにも幼い頃から「自立」という名の「孤立」を強いられている子ども。「自己責任」のうえで、「自己決定」し、その結果について「自己評価」させられている子ども。
子どもにそんなことを強いるわけは、親がよかれと思っているからに他ならない。もう年功序列は崩壊、優良企業も倒産のおそれと背中合わせ。我が子が生きていく社会は誰も助けてくれない能力主義社会なのだから。そして、その親たちも、そのように育てられたのだから、「だから私たちはこうして自立し、自己責任において自己決定してこの社会を生き抜いている」と、自己評価しているのだ。
「その親たち」と私が呼んだ世代は、昨今「モンスター親」「クレイマー」などと揶揄される40代を中心とした親たちとは異なる。すぐにかっとなったり、あるいは冷静にしろ、問題をトコトンまで追及して責任を問う、などといった行動にはおよそ興味がない。彼らは自分にしか関心がない。関心の的は、「こんなによく働く夫をゲットした自分」「こんなに美しくお洒落な妻を手にした自分」「こんなにブランドものの服がサマになる可愛い子どもを産んだ私」であり、けっして「働く夫」「美しい妻」「可愛い子ども」そのものではないのである。また、それら《「働く夫」「美しい妻」「可愛い子ども」から見た自分》でもない。あくまで自分に見える自分。
個性の尊重と自立心の確立、そのような、よさげに聴こえる言葉を乱発して、文科省を筆頭にこの国の社会やメディアは人々を翻弄してきたが、その成果がこんな形でしっかりと現れている。もはや誰もが、本当の友達ももてず、頼れる隣人や仲間をもてず、相談できる同僚や先輩や師ももてず、よるべなき「個」として生きるしか道がなくなり、まさにそれを苦にせず生きているのである。
本書『下流志向』は、著者が2005年に行った講演がもとになっている。その講演に先立ってよりどころとされたのは、「学びから逃走する」子どもたちについての佐藤学の議論や、勉強しなくなった子どもや根拠もなく自信たっぷりでいる子どもにかんする苅谷剛彦や諏訪哲二の調査研究、希望の格差を論じた山田昌弘の著作などである。
2007年1月、本書が刊行されたが、私はタイトルと装訂デザインになんとも暗雲立ち込めたゲンナリしたものを感じたので、購入する気になれず図書館へ出向いた。そのときすでに数十人もの予約が入っていたのでいったん諦めた。数か月後再び予約しようと思ったとき、市内の十を超える公立図書館は合わせて30冊以上の『下流志向』を蔵書していた。そのとき、予約人数は200人を超えていたが、案外早く回ってくるかもという予想を裏切ることなく、ほどなくしてある秋の日、本書を読むことができた。
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