2008-01-08
『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』
内田樹著
講談社(2007年)
1月5日、娘と二人で「初図書館」した。
自転車置き場で3歳くらいの男の子が顔中涙鼻水だらけにしてわあわあ泣いていた。舗道まで出ては引き返し、自転車置き場の自転車の間をあてなく歩き、図書館入り口前でぐるりと歩いてはまた舗道に向かう。
迷子だ。お母さん、といって泣いているのだろうけれど、もはや言葉になっていない。むやみに舗道へ出ると危ないので私は駆け寄ろうとしたが、ふと足を止め、様子窺いをすることにした。
図書館からはけっこうな数の人々が頻繁に出入りしている。私が男児に声をかけようとした直前、男児の脇を中年男が「オレ関係ねえ」とばかりに知らん顔ですり抜けていった。隣接する別館から出てきた年配の婦人ふたり連れは「迷子やわあ」と眺めて通り過ぎていった。小学生たちは男児を気にして視線を投げつつ、なす術なく通過。いったいどれだけの人々が迷子の幼児を放置するだろうか、と観察する気になったのである。しかし、観察はものの数秒で終わった。迷子の男児が再び図書館入り口に向かいかけたとき、彼と同じくらいの年頃の女児の手を引いた女性が、彼に声をかけた。男児は大きな口をあけてわあわあ泣いたまま、女性の問いかけに頷いたり、かぶりを振ったりしている。女性はこっちにおいでという仕草をして、図書館内に彼を連れていった。
よかった。男児が保護されたこともだが、どこから見ても迷子にしか見えない小さな子をほうっておく人たちばかりじゃなくて、と心底思った。私はほとんど男児に駆け寄りかけていたので、どのみちそんなに「実のある」観察はできなかったと思うけれど。
件の女性が声をかけたとき、娘が「あ、あれがお母さんじゃない?」と言ったが、私は「違うよ」と訂正した。わけは、女性がまったく男児に触れようとしなかったからだ。声をかけるときも、しゃがんで男児の目線に合わせることはせず、上から見下ろすばかりで、手招きし、図書館内へ一緒に入るよう促すときも、1メートルほど先に立って歩いて、手を自分の後ろでひらひらさせただけだった。
母親なら、我が子を見つけたら(喜んで見せる親も叱りつける親もそれぞれあるだろうが)駆け寄ってまず子どもの顔の高さに自分の顔をもっていくだろうと、私は思ったのだ。思ってから、最近の母親はそうはしないかもしれないな、と「あれがお母さん」といった娘の見解に妙に得心するところがあった。
道端だろうと電車内だろうと百貨店だろうと、ひどい罵り方で子どもを叱りつける母親を星の数ほど見た。彼女らは、子どもが行儀悪いからとか、言いつけや約束を守らないからとか、そういう理由で叱っているのではなく、ただその振る舞いが、自分にとって気に入らないものだからアタマに来て罵っているのだ。私にはそんなふうに感じられるケースばかりだった。
夏に訪れた観光地でのことだ。ひとりでは靴をうまく履けないくらいの幼児が、どうにかこうにか靴を足に引っ掛けて、先にさっさと歩く母親に追従しようとするのを、母親は振り向きざまに「なんでそんな履き方しかでけへんねん!」と怒鳴りつけ、次いで「ほんまにそういうのが嫌いなんじゃ!」と言い放って舌打ちし再び背を向け歩き出した。そんな言葉を浴びせられた子どもは、だから泣きながら履き直すかといえばそうはせず、無表情で、足指の先に靴を引っ掛けたままで、母親の後をついていくのだ。
叱る、罵るケースだけではない。
自転車の往来や大きなカートを転がす旅行者も多いある大通りの舗道で、いかにも歩き始めたばかりといった可愛らしい足取りの幼児がよちよちと歩いていたが、驚いたことに母親らしき女はその2メートルもの先に背を向けて歩いているのだ。時折振り向いて、「ママここだよー早く歩こうねー」なんていう。いったのち、また背を向けて歩き出す。
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