カミサマの居ぬ間に洗濯?
2007-10-15



『新訂 徒然草』
西尾実・安良岡康作校注
岩波文庫(1928年、1985年改版)


本当に涼しくなった。朝晩、寒いくらいだ。我が家はまだ扇風機を出しっぱなし、玄関先の間の建具は葦戸のままで、風通しがすこぶるよいままであるからして、朝夕寒いのである。我が家はオスは金魚だけなので、そうした力仕事は私の仕事だが、その私がいちばん時間がないときている。ごめんねみんな、朝晩は一枚よけいに着込んで、もう少し我慢してくれ。

秋深し。読書の秋。ちとテンプレートを取り替えてみた。
あさぶろさんからは毎月新しいテンプレートが提供されているが、あまりキモチにフィットするものがないのである。
とりあえず今は、読書の秋期間限定テンプレである。

仕事で資料をあさっていたら、兼好法師の『徒然草』にいきあたった。
なんと懐かしい。冒頭の「つれづれなるままに……」を習うのはいつだっけ? 中学生か高校生か?

第二百二段で兼好法師は「十月を神無月と言ひて……」、その理由は神事によるというけど確証はないんだよ、てな話をしておられる。
なんでも、10月は神様に号令がかかり、皆さん出雲に大集合されるらしい。それで巷から神様がいなくなってしまうのだが、神様がいなくなって下々はどうなんだろう、不安な日々をおののきながら過ごすのか、それとも目の上のたんこぶのしばしの留守に羽を伸ばすのか?
おおかたの現代人にとって、神様は都合のいいときだけ祈願の対象になる便利グッズというか便利ゴッド、だけど、昔の人々にとってはどうだったのだろうか。この国には八百万(やおよろず)の神様がいるから、いつも一緒にいてほしい神様も、「元気で留守がいい」神様もいたであろう。

『徒然草』には、わが町の地名がたくさん出てくる。
今は舗装道路になって国際マラソンのコースになっているような道を、草履でてくてく歩いた人のことを思うと、それはけっして千年も昔のことなどでなく、こないだ亡くなった隣町のじいさんの伯父さんだった人、くらいに思えるのでまた不思議である。

でありながら、古典を読むよさは、やはりその書き手が古(いにしえ)の人であることに尽きる。同じことを、現代の自称知識人や詐欺師まがいの文化人なんかが言うのを聞くと「るせーよテメー黙ってろ」とすぐ毒づきたくなってしまうが、千年も前の人の仰せのことは、単に「虫が啼く、いとをかし」みたいな文でもありがたく思えて心穏やかになるのだ。

《筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤打たんことを思ふ。心は、必ず、事に触れて来る。》(第百五十七段)

筆を取れば自然と何か書くようになるものなのであると仰せである。
[ちと古い文学]
[おもったこと]

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