奇跡かもしれないのだから
2007-10-03


『「おじさん」的思考』
内田樹 著
晶文社(2002年)


我が最愛の内田さんのブログをアーカイヴに至るまでくまなく読みつくしている私には目慣れた文章の続くエッセイ集だけれども、そして初出年月日も若干古かったりもするのだけれども、日頃あれこれつい思い悩むようなこと、日常遭遇するさまざまな事どもへの「明快答」が列挙されていて、実に気分のいい一冊なのである。
愛するウチダが書くと、政治も宗教も教育も、犯罪もフェミニズムも哲学も、すべて私たち日本人ひとりひとりの生き方考え方在り方を自問自答することに帰する。自分には無関係な議論、日々の雑事からは遠く離れた出来事とスルーしがちなことが、ああホントだねとあてはまり、思いあたり、反省を要することに気づかされる。私の場合、これがとっても心地いいのでウチダを読むのをやめられない。

今日、彼は自身のブログで《「生きていてくれさえすればいい」というのが親が子どもに対するときのもっとも根源的な構えだということを日本人はもう一度思い出した方がいいのではないか。》と書いている。

使用語句は異なれど、愛するウチダは自身のこの一貫した考え方を幾度となく書いているはずで、ゆえに彼の膨大な数の著作のあちこちに同様のフレーズが掲載されているはずだ。
したがってウチダを読みあさりまくっている私は、幾度となく「子どもは生きていてくれさえすればいいのだ」と反芻しているはずなのだが、育児中はつい、すぐ忘れる。ほんとに、忘れる。忘れてつい、子どもに「もっと高く」「もっと強く」と求めてしまう。



ウチの娘ときたら、また怪我をした。
小学校のサエキ教頭(仮名)の太く低くそれでいて上ずった声がケータイの向こうから「緊急事態」を告げている。
私はバタバタと原稿を書き進めていたが、思考を中断されていささか不機嫌である。
サエキ教頭の声は上ずってはいるけれど、彼の状況説明を信用するなら娘の怪我は全然大したことないのである。
「校庭でボール遊びをしていまして、どうやら友達が至近距離から投げたボールを、さなぎちゃんは受け損ねたようなんです」
「はあ、それじゃあまた突き指ですね」
「そのようです」
なら保健室の冷却剤で冷やしときゃいいじゃんか。湿布のストックあったら巻いといてくれよ。とりあえず陸上の放課後練習はやめて帰れっていってくれ……というようなことを申し上げようとしたのであるが、「そのようです」といった後サエキ教頭は「が……」と言葉を継いだ。
「腫れ方が尋常ではありません」
「はああ……骨折かもしれないと?」
「なきにしもあらず、です……」(沈痛な声)

ちょうど午前・午後の診察時間のはざまで、開いている整形外科を見つけるのに少し時間を要したようだ。サエキ教頭が再び電話してきて、「すぐ診てくれるところがありましたので、直行します! お母さんもすぐ来てください!」と相変わらず声のトーンは緊急事態モード。
骨折でもしていたら、少しは懲りて大勢の男子にひとり混じって激しいボールゲームに興じるというようなことを控えてくれるんじゃないか。とにかくここ何年か、ほとんど月イチで突き指してるんじゃなかろうか。だいたい3月の捻挫だって男子とバスケットで遊んでいたときだったし。こないだも階段から落ちて青あざつくっていたし、その数日前には体育館で滑って派手なすり傷つくっていたし。
思いがけず指がパンパンに腫れてきて、怖くて不安で大泣きしているに違いない。いい薬である。などとのん気にチャリンコを転がしていたのであるが。

医院の待合室に入ると深刻な顔をしたサエキ教頭の横にへらへらと笑いながら「しまった」という顔で舌を出す娘。
「またやったのか」
「だってリュウがすごい至近距離で顔めがけて投げるからさ」
「顔は守ったわけだな」

続きを読む

[そのほか]
[うちださん]
[おもったこと]

コメント(全9件)


記事を書く
powered by ASAHIネット