時間は時計の「針」で知りたいわよね
2007-05-28


『フローラ逍遥』
澁澤龍彦著
平凡社(1987年)


我が家の時計草が今年もたくさん蕾をつけている。
物干し場に麻紐を何本も張って、一面時計草の蔓でうまるように画策したのだけれど、気まぐれな蔓は年によってあっちへ伸びたりこっちへ伸びたり、紐のない場所にばかり伸びてくれるので、「時計草のカーテン」は非常に貧相である。今年もまた、紐のないほうへいくつも茎と蔓を伸ばして互いに巻きつきあって、もつれるようになりながら、それでも等間隔についた蕾がふくらみかけている。今日は開いたかな、明日は開くかな。全部が無事開花するとは限らないのだけれど、今から夏にかけては、洗濯物干しが楽しい朝のイベントになる季節なのだ。

街のアンティーク雑貨店を取材した時、青い器に見覚えのある花が浮かべられて、ディスプレイされていた。店主に、この花はもしかして時計草ではないですか、と尋ねたら、ええそうですよ、いっぱいあるもんですから。はあ、いっぱいあるとおっしゃいますと。裏の壁一面に生えとりますねん。

雑貨店の裏手の壁をびっしりと、時計草の蔓がうめつくしていた。横長のプランターが10個ほど、壁に沿って置かれていて、そこからいくつか伝い棒が立てられていたが、上の階の窓の桟から大きな目の網が吊るされており、時計草たちはその網にしっかり蔓を巻きつけて繁茂していた。

私は時計草なんてそう簡単にお目にかかれないと思っていたので、こんな近所に時計草の壁があるなんて、と取材の趣旨そっちのけで店主としばし、時計草に談笑した。

時計草は、開花すると時計の文字盤のような、もちろんアナログの、ちょいとアールデコ調の面白い表情を見せる花である。植物の種類に疎い私が、その花に出会ったのが『フローラ逍遥』の中であった。

この本は著者が『太陽』という雑誌に連載していたエッセイをまとめたものだそうだ。私はこの本をきっかけに澁澤ワールドに足を突っ込みかけて、つま先だけ触れて引っ込めた。だからけっきょく、著者の世界にうんと浸りきったわけではないのだが、それでも本書には、うんとうんと浸らせてもらった。
何しろ本書は装訂が美しい。本屋でひと目見て惚れて購入したと記憶している。ハードカバーでケース入り。ケースと表紙は本文の挿画としても使われている花の絵で、たっぷり贅沢に覆われている。
挿画というのは、東西の植物誌から拝借したらしき数々の花の細密画。その控えめで美しいことといったら。花の魅力を、ただ対象を忠実に描くだけの技法で、200%も表現している。とうてい、写真の力の及ぶところではない。なぜ昔の人はこのように奇跡的な眼力を持ちえたのかと、そりゃ機械がなかったからさとわかってはいても、驚きを禁じえないし、嫉妬すら覚えるのである。

というわけで、画と文とどちらが主役かわからないようなこの本の、主役はもちろん澁澤さんのエッセイである。花の名を題にして、その花にまつわる思いやエピソードが連ねられている。澁澤さんの著作をあらかじめ読まずにこの本に触れたことが私には幸いして、深読みをすることなく、花びらのように軽やかな文章を読んでは絵を見つめ、絵を見ては文章に戻り……を、ただ単に繰り返すだけで幸せに浸れた。
ほとんどが知っている花の名と姿であったが、なかで時計草だけが知らない植物であった。時計草だけが、実物ではなく本書にある挿画の姿で、長らく私の脳裏にあった。

その、挿画そのままの姿の時計草を、くだんの雑貨店の、青い器の中で見た時の、私の喜びといったら。
私の興奮にただならぬ気配を感じたのであろう、店主は、取材と撮影を終えて帰り支度をする私に、時計草のひと束をくださった。あの裏の「壁」から、等間隔に蕾のついた幾茎かを、切り分けてきて、手土産にくださったのである。

その時計草の茎たちは、ついていた蕾を順々に見事に咲かせた。やがて端に白い髭のような根が見えたので、短く切って土に挿した。

続きを読む

[ちと前の文学]

コメント(全4件)


記事を書く
powered by ASAHIネット