2007-05-18
『蛇つかい』永井荷風著
「ちくま文学の森13 旅ゆけば物語」所収
筑摩書房(1989年)
私はなぜか「ちくま文学の森」を別冊を除いて全巻持っている。
古今東西の名作名文をそれぞれ何かしらキーワードをたてて、その趣旨にそって各巻計20編余集めてあるものだ。
殊勝にもちょこちょこと買い揃えたのであるが、それはただただ、カバー絵が敬愛してやまない安野光雅氏の絵だったからである。私はこの画家にめっぽう弱い。安野さんの絵は、何を題材にしてあっても哀愁と洒落っ気が漂い、胸にじわりとこみ上げるものを感じるのだ。大好きなのである。
筑摩書房からは文庫サイズで日本文学全集みたいなのが出ていたと思うが、それにも安野様の絵がカバーに使われているので、中途半端に5、6冊、いや7、8冊持っている。全巻揃えてはいないけど。内田百けん(「けん」は門の中に月)とか、宮澤賢治とか。賢治なんかそれをわざわざ買わなくてもすでにいっぱいあれこれ持ってたというのに。
私は死刑廃止論者か?(大した意味はないのでいきなり何やねん、と思わずそのまま進んでくれ)そうであるともいえるしそうでないともいえる。……という、まことに微妙な立ち位置にいるというよりも、どっちが正しいのかわからないから、自分で結論出せるほど考えようとしたことがないから、どっちだとはいえないんだけど、にもかかわらず死刑廃止キャンペーンをしているアムネスティインターナショナルのグッズを購入するのに余念がない。いうまでもなく、安野光雅大先生によるオリジナルグリーティング・カードや絵葉書があるからだ。
それはともかく、そうして買い揃えた「ちくま文学の森」の中身については、全部読破したとはとてもいえない。好きな話は何度も読むし、関心を引かない巻は一度も触らないまま麗しき表紙カバーが色褪せたりしている。
この13巻も、アンデルセンの『御者付き旅行』しか読まないまま、長きにわたって書架のアクセサリーになっていた。それを今取り出したのはわけがある。
最近、スタンダールに関する研究論集を頑張って(なかなかに難しかったので)読んでいたのだが、その最初のほうにこういう一文があった。
《明治四十一年(一九〇八)七月、永井荷風は欧米滞在から帰国する。四十一年十一月、『早稲田文学』に、短編『蛇つかひ』を発表するが、それには題辞として『アンリ・ブリュラールの生涯』第十四章の文章が引かれている。
「(仏文省略)
われは其のまゝに物の形象を写さんとはせず、形象によりて感じたる心のさまを描かんとするものなり。〓〓スタンダル」》
(『スタンダール変幻』慶應義塾大学出版会、7〓8ページより)
なんつうええ言葉や。ものを書く者の心に響くではないか。私はこの「題辞を冠した『蛇つかひ』」をなんとしても読みたいと思った。ところが、「蛇つかひ」で図書館を検索してもひっかからない。現代仮名遣い「蛇つかい」で探してみると見つかった。「ちくま文学の森13」。へ?
灯台下暗し。我が家に15年以上前からある本ではないか。私は嬉々として13巻を取り出した。
目次を見て、ページをめくる。『蛇つかい』。よしよし。
しかし。
そのスタンダールの題辞はなかった。
私はいっとき、当時の連れの影響で永井荷風の『断腸亭日乗』を何度も読んだ。世の中に日記風の文学は多々あるが、私にとってはこの『断腸亭日乗』がダントツで傑作だ。荷風は別名断腸亭主人と名乗ったと(あるいは後世にそう名づけられたかは知らないけど)いうけれど、私にとっては○○亭主人なんて小粋に名乗って許せる物書きは荷風だけである。それほど『断腸亭日乗』は面白い。
『断腸亭日乗』にはたびたび「曝書(ばくしょ)」という言葉が出てくる。初めて目にした時はその語感から「本を読みまくる」ことかと思ったがそうではなく、蔵書を虫干しすることだった(笑)。なんと風流か。私も曝書したい、と思ったが同時に気が遠くなったものだ。
記事を書く