絵本は「本」【上】
2007-02-07


『あらしのよるに』
木村裕一 作  あべ弘士 絵
講談社(1994年)


アニメ映画にまでなってしまったシリーズ絵本の第1作。ガブとメイの友情物語の序章に当たる。子どももその親も若者たちをもその渦に巻き込んだ感動巨編。しかしである。関係者にも感動した人々にもうらみはまったくないけれど、私は、『あらしのよるに』はこの一冊だけで完結していて欲しかった、とその後のヒットを好ましく思っていない一人である。『あらしのよるに』はこの一冊だけで十分にスリリングであるし、想像をかきたててくれる。オオカミは、ヤギは、あのあとどうしたと思う? 仲良く一緒にご飯食べたかな? 『おおかみと七匹の子やぎ』のお話を知っている子どもなら、「ヤギさんは食べられてしまう」と残酷な結末を想像するかもしれない。もっと幼い子どもなら「一緒におむすび食べたかな」なんて可愛いことをいうかもしれない。いずれにしても、続編を次々とこしらえてくださったので、このお話には「続き」が存在してしまった。ある意味、親子の楽しみが奪われたといえなくもない。残念である。それほど『あらしのよるに』は、この一冊の完成度が高い。続く巻を大きく凌いで優れた絵本であると断言する。

といっても、私は「2巻め」以降をまったく読んでいないので、それらについて述べることができないだけでなく、結果的に「1巻め」になるこの『あらしのよるに』が「続く巻を大きく凌いで優れた絵本であると断言する」なんてもってのほかなんだけど、本当は。

同じ書き手と画家によるのなら、おそらく一冊一冊はどれも素晴しい絵本に違いない。あべさんの絵はとても素敵だ。動物園で飼育係をされていたこともあるというこの人の絵は、観る者に媚を売らない。動物たちとじかに接してきた人ならではの動物の描き方。なんといえばよいのかな、動物への本物の愛という陳腐な表現では足りないな、心の深い深いところから自然に生まれている動物たちへの寛容、厳しくも温かい飼育者の眼(これは、そうした職業経験のあることを知っているから受ける印象ではあるけれど)が、押しつけがましくなくにじみ出ている絵。

完結まで6巻。
その内容はひとつなぎになって、メディアを通じて広く流布された。そしてそのおかげで、初めて絵本『あらしのよるに』を母娘で読んだときの楽しさは、おそらく娘の記憶からは失われてしまった。彼女にとって『あらしのよるに』とは、幼児期に私が読み聞かせた絵本ではなく、オオカミとヤギの切ない友情と恋慕を描いたアニメ映画になってしまったのだ。
(おまけに『小説・あらしのよるに』なんてものがあるらしい。それを立ち読みして感動して泣いたという同僚からその内容を聞くかぎりでは、たしかにわかりやすくて、誰もが泣ける展開だ。でもな、だからって、立ち読みして泣くなよ、同僚)
幸い、その映画をウチの子は一度は観たいといったが、「お母さんは観たくない」というとあっさり引き下がってくれた。

さて。
子どもを膝に乗せ、絵本を広げて読み聞かせる。子どもにとって今ここは、暗い小屋の中。すぐそばにいる見知らぬ相手、でも顔は見えない。外は暴風、豪雨。子どもはどきどきしながら、どうなるの、どうなるの、とわくわくしながら絵本のページを凝視する。目は絵を見ているが、頭の中は、経験したことのない嵐のものすごさを自分が知っている限りの音で感じようと懸命だ。オオカミの声、ヤギの声を、読む親の声を通して恐ろしげにあるいは不安げに解釈している。その子どもの体を打つ鼓動は、親にも、ずんずんと、伝わる。
嵐の夜とはどんな夜なのか。幸いにも大きな自然災害を体験していない私たち。だからこそ、子どもはそれを全身で想像しようとする。本を読む楽しさはそこにある。絵本だろうと、一般書だろうと。まだ見ぬもの、知りえないものの疑似体験をするのだ。読みながら、音声と映像を頭の中で作り出すのは自分自身だ。


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[えほん]

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