疲れた大人が読む物語である
2018-05-10


『エーリカ あるいは生きることの隠れた意味』
エルケ・ハイデンライヒ 作
ミヒャエル・ゾーヴァ 絵
三浦美紀子 訳
三修社(2003年)


ゾーヴァという画家をずっと前から知っていたわけではない。その名前は百貨店のホールで開催される美術展の告知で知った。その後調べてみたらすでに挿絵を担当した物語本はいくつか翻訳出版されていたし、画集も出ていた。日本では2005年と2009年に巡回展が開催されたが、わたしが娘と行った美術展は2009年のほうだったと思う。その頃から、美術展の際にショップで売られる「小物」のヴァリエーションが増え出したと記憶している(図録と絵葉書くらいしかなかったのがクリアファイルや缶ボックスやマスキングテープやマグネット等々等々)。わたしは「ちいさなちいさな王様」の缶ボックスを買いましたのよ。
そしてまたうかつなことに、映画「アメリ」で作品が使われて話題になっていたというのに、そんなこと全然知らずにいたことも、その美術展で知ったわけで、映画好きを自認しているのに時にあまりにも細部に無頓着すぎてわれながら呆れたのである。
そんなわけで、ゾーヴァの絵との出会いが出版物ではなく実物であったことは、この画家の昔からのファンの皆さんとは、多少、その作品に対する意識が異なることにつながったのではないかと思う。その絵の数々はたいへん素晴しく、迫力もあり、また物理的な「厚み」を感ずるものたちだった。そういう絵の数々にいたく感動してから既刊のゾーヴァ本を探したが、本がどれも小さくて、展覧会で観た圧倒的な迫力はどこかへもっていかれてしまっている。もちろん、挿絵にするのが前提で描かれた絵の原画は、どれもそれほど大きいものではなかっただろうと推察されるが、展覧会で大きな絵の数々を観てしまったので、本になったゾーヴァに物足りなさを感じてしまい、なかなか読む気になれなかった。

しかしながら、図書館で、目的の有る無しにかかわらず棚を眺めていると、ふとした弾みで目につき、ふとした弾みで借りてしまうことがある。このたびは、早々に目的の書籍を見つけて「ついでに何かほかに借りていこうかな」と思うやいなや目についたのであった。

ゾーヴァの挿絵が使われているが、いわゆる絵本ではなく物語の本である。物語は長くなく、クリスマスの短いお話である。しかし子どもに聴かせる話ではない。大人の読む物語である。しかも、仕事と恋と人間関係に疲れた大人が読む物語である。タイトルが示すとおりである。生きる意味を問うているならこの本を読みましょう。

物語はいきなりこう始まる。《その年はずっと、狂ったみたいに働いた。》
かつてのわたしみたいだ。《まるで生活するのを忘れてしまったかのようだった。友人にもほとんど会わず、休暇を取って旅行することもなかった。》
なかった、そんなの。仕事以外の何をしているのか毎日わたしは? ……みたいな日々だった、わたしも。《そして鉛のように重くなってべッドに倒れこんだ。》
ああ、ほんとうに、わたしのようだ。

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