2014-05-31
《穴の中、穴の奥、完璧に近い孤独の中にいて、書くことだけが救いになるだろうと気づくこと。本の主題なんかなにもなく、本にするという考えもまったくもたないこと、それが一冊の本にとりかかる前の、自己発見、自己再発見なのよ。広大ながらんどうの広がり。できあがるとは限らない本。無を目前にしているのよ。》(「書く」21ページ)
とりとめない文章のようだが、ひと言ひと言が、じつに深みを感じさせる。やっぱ情念の人。濃い気持ちがこもっている。短いセンテンスに、毅然とした意志が見える。
《書くことが私から離れたことは一度もない。》(「書く」13ページ)
《書くというのは語らないことよ。黙ること。》(「書く」33ページ)
《絶望しているにもかかわらず、それでも書く。違う〓〓絶望とともに書く。どんな絶望かといわれれば、今感じているものは名づけられない。》(「書く」35ページ)
書くことは、原始的なことだという。
生命以前の原始性に立ち戻ってしまうことだという。肉体の力がなければものは書けない、ともいう。
《書くことに近づくためには、自分より強い力が必要で、書かれること以上に強くなければならない。たしかに奇妙なことね。》(「書く」27ページ)
《原始的な自然で起こる出来事のあいだには脈絡がなかったでしょう。だからプログラミングなんかありえなかったのよ。そんなものは私の生活で一度も存在しなかった。ただの一度も。(中略)私は毎朝書いていたわ。でも、時間割りなんかなにもなかった。》(「書く」41ページ)
本書は、書くという動詞が書名になっているが、書くということだけがえんえんと語られているわけではない。 デュラスは「書く」のなかに、かつての愛人への思いを書き、息子への愛を書き、映画への情熱を書き、ナチスドイツへの憎しみを書き、蠅の死を書く。彼女は多くの作品を映像化したので、というより、映像化するために書かれた作品が多かったといったほうがいいだろうか、だから文章が色濃く映像的なのだろう。本書には「書く」のほかに「若きイギリス人パイロットの死」など数編の短編が収められているが、どれも、ページを繰るたび、一枚ずつ、絵画が提示されるような、明快な風景が瞼に浮かぶ。寺山修司の映画を見る感覚に似ている。
いわゆるライトノベルというジャンルを、私はあえて読まないが、ライトノベルには、センテンスごとに絵画が立ち上がってくるかのような力はないのではないか。映像が浮かぶというのは説明的であるということでは、けっしてない。横道にそれるが、やたら説明的に感じるという理由で、村上春樹などは、力強さといった意味で私にはもの足りないのである。
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