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『ひとり暮らし』
谷川俊太郎著
新潮文庫(2009年)
石川さゆりが『津軽海峡冬景色』を歌っている。ああ、やっとまともな歌が聞こえてきた(笑)。おお、続いて我が美輪明宏だ。今年もナイス選曲。
もう少しで年が明けてしまうのだな。
さて。
少し前、上掲の本について書いた。
谷川俊太郎を原野にたたずむ孤高の詩人、などと勝手なイメージでまつりあげておいて、でもエッセイは面白くないなんてこれまた手前勝手な印象だけで書き捨ててしまったが、面白くないということは、彼が意味のないくだらないことを書いているということとは違う。むしろその逆で、まことにそのとおりである、と泣きたくなるほど核心を突き、それ以上語りようがないほどに、まっすぐで、真実で、虚飾がなく正直なのである。人間とか自然とか生と死とか営みとかの本質に迫り、というより本質を匙のようなものでくるりと掬い、紙の上にとんとんと落として文字、文章にしたような、そんな生々しさを感じて居心地が悪いのである。彼の詩は、そういう生々しさはない。オブラートに包むのではなく、彼の詩の場合、きちんと舞台用の衣装を着ているということだ。心の叫びがそのままではなく、ちゃんと居住まいを正し、その場所にふさわしいなんらかの羽織りものを着たり、その舞台(詩集)のための飾りをつけて、つくり手(谷川俊太郎)の意図したように読み手に伝わるように小道具も持たされて、そこに在る、というのが谷川俊太郎の詩だ。それは、選び抜かれて、練られて、咀嚼されたり調味料足されたりした作品としての言葉の羅列である。それに比べたら、エッセイや日記やコラムの文章はどれも「そのまんま」なのである。
《食物をもとめて氷原を移動していていよいよ食料が尽きたとき、エスキモーの老人はみずからその場に座り込み、他の人々もまた老人を残して移動をつづけるという。ゆとりという言葉の入りこむ隙もない老人のそういう生きかた、あるいは死にかたに、かえってゆとりが感じられるのは何故だろう。》(18ページ「ゆとり」)
《私のからだが母親のからだから出たように、私の心も母親の心から別れ始める。そして私は母親の代わる存在を求める。
恋とは私のからだが、もうひとつのからだに出会うことに他ならない。自然と違って人間はからだだけではないから、からだと言うとき、そのからだの宿している心を無視できないのは勿論だが、心とからだはただことばの上で区別されるだけで、本来はひとつのものだ。しかしまたひとりひとりの独自な心は、人間特有のものであり、その心を支配し、それに支配される万人に共通なからだは、人間を超えた自然に属している。その矛盾を生きるのが人間であるとも言えよう。》(22ページ「恋は大袈裟」)
《すべての絵かきがそうだとは思わないが、自意識などという余計なものに邪魔されずに、自分で自分をリアルにみつめる目は、どうももの書きより絵かきのほうがもち易いような気がする。》(52ページ「じゃがいもを見るのと同じ目で」)
《勝新太郎さんがどこかでこんなことを言っていた。おれっていう人間とつきあうのは、おれだって大変だよ。でも、おれがつきあいやすい人間になっちゃったら、まずおれがつまらない。私はすっかり感心した。自分とつきあうのが大変だなんて考えたことがなかったからだ。(中略)
ほんとは誰でも自分とつきあうのは大変なんじゃないか。ただ大変なのを自分じゃなく、他人のせいにしてるだけじゃないか。大変な自分と出会うまでは、ほんとに自分と出会ったことにならないんじゃないか。上手に自分と出会うのを避けていくのも、ひとつの生きかたかもしれないけれど。》(57ページ「自分と出会う」)
《死ぬってことは、辞世の句とも遺言とも、葬式とも関係ないなあと私は思い、どんな死にかたをしたって、死の本質に変わりはないという感慨にとらえられた。》(72ページ「単純なこと複雑なこと」)