Les jours heureux
2012-09-04


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『ハッピーデイズ』
ロラン・グラフ著 工藤妙子訳
角川書店(2008年)


原題の「Les jours heureux」は「幸せな日々」という意味で、したがって「ハッピーデイズ」というのはそのまんま英訳カタカナにしたものである。
「Les jours heureux」は、この小説の舞台となっている老人ホームの名称でもある。
翻訳作業なんぞをしていると、外国語をわが母語に置き換える困難さに辟易すると同時に、日本語という言語の便利さと融通無碍さに救われる。この小説において、主要な舞台である施設名は小説の題名であり、テーマであり、キーワードでもある。「幸せな日々」では明瞭すぎて何も語らなさすぎる。では原題の発音をカタカナに置き換えたら? 「レジュールゾロー」。意味不明(笑)。

で、「ハッピーデイズ」だなんて。なんと。「ハッピー」も「デイズ」もその意味を知らん日本人が存在するだろうか? なんと行き届いたこの国の英語教育。文部科学省万歳。このように、わが母語には普通名詞の顔をした英カタカナ単語が実に生き生きと存在し使用されておるゆえ、原書が仏語だからといって「それ」を利用せずにすます手はないのだ。シャワーだってキッチンだってスパークリングワインだってオレンジジュースだって、いちいち仏語カタカナになんかしないのだ。(ドゥーシュ、キュイジーヌ、ヴァンムース、ジュドロンジュ。意味不明)

というわけで、ハッピーデイズ。ハッピーデイズと書かれた表紙の下にきれいにペイントされたこぢんまりした建物と老人二人の写真。これだけだが、余生の幸福がテーマの話だとわからない日本人がいないわけがなかろう?

だけど、もし私がこの本にタイトルをつけたなら、ハッピーデイズとはせずに、主人公のアントワーヌを前に出しただろう。「僕は十八で墓を買った」とか「老人ホームで暮らすわけ」とか。あるいは「ミレイユ」。ミレイユは入居者の一人で末期がん患者、アントワーヌと心を通わせる老女だ。
出版に至るまでに、こうした案も含め、小説のタイトルにはきっと相当な議論がなされたに違いない。どんな小説でも映画でも、タイトルは生命線だ。その本を書架から、あるいは平積みワゴンから手に取る理由は、申し訳ないが店員の手書きポップではなく、「タイトルに惹かれたから」に尽きる。購買行動を喚起する第一のアイキャッチ。

そういうことから考えると、ハッピーデイズという語は、シンプルすぎて、優しすぎて、目に留めた人の心をわしづかみにするほどのパワーを持たない。持たないからこそ惹かれる人もあるだろうが、一般的にいえばやはりちょっと弱いように思われる。
ただ、何だろ?と思って読みさえすれば、「ハッピーデイズ」の語が幾重にも意味を含み、読者にとってのハッピーデイズの何たるかを問いかけすらしていることがわかって、読後は「ハッピーデイズ」の語が単に優しいだけの小説の題名を超え、心にどすんとのしかかるのを感じる。
ということを考えると、「僕は十八で墓を買った」じゃなくて「ハッピーデイズ」でよかったな、小説よ、と言いたくなる(笑)。

ただし、以上は、かなり好意的にこの小説を読んだ場合である。

正直いうと、違和感を拭えないまま読み進んで読み終えてしまった。奥歯になんか挟まったまんまよ、てところか。

主人公のアントワーヌは18歳にして人生のすべてをもう経験し終えたと悟りこの上は死ぬ準備をするだけだという境地に至る。で、親が貯めてくれた貯金をすべてはたいて墓を買う。

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[今の文学]

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