Je t'aime toujours, je te souhaite des jours prochains merveilleux...
2011-12-27


私はたぶん、惚れた相手を過剰に愛するので、ある時期からその容量を測れなくなってしまう。過剰な愛に対して等価といえる愛が返ってきていなくても気づかなかったりするのだ。恋が終わっても、私は相手を恨んだり罵ったりしたことがない。それに近い思いを抱いたこともない。いっそ憎めればよいのだろうが、惚れた男たちはみないつまでたっても美しく私の中で輝いている。負け惜しみや冗談でなく、私は彼らが幸せであってほしい、私が今幸せであるようにあなたも幸福に包まれていますようにと思うのである。べつにそんなことを初詣に祈願したりはしない(自分と娘のことしか祈願はしない)けれど、ご本人とそのお身内の無病息災、なにより自身が納得して生きて、その生を全うしてほしいと思うのである。
自分の意に沿わぬ行動をとる人を、それでも好ましく思い続けることは、ある人々やある年代には難しいことなのかもしれない。好意なんてもてないから無視する、無関心を装う。人目につくところではそれで済ませても、時に感情が高ぶってそれで済まなくなり、罵詈雑言を叩きつける。その格好の場がネットなのだろう。
どうでもいいことを長々と書いたが、50年近く生きてやっと隣人と地域とともに在らねばならないとの思いに到達した私は、好き勝手なことをうだうだ書き散らしてはいても、その言葉のもつ針や棘やヘドロ臭の醜さを超越して「人間」を愛している、そのことに気づいたのである。若い頃、人間ほど嫌いな動物はないと断言できた私だが、今は昔だ。
私がいつまでも内田樹を愛し続けることができるのは彼の発するさまざまな思考が、表現や言い回し、論調が変わっても、ぴたりと私のそれと波長を一致して響いてくることに、快感を得るからに他ならない。彼はいつまでも私の二、三歩先をゆく「ちょっと物知りのオバサン」である。押しつけがましくない分、つい、追随したくなる魅力をその腰つきからふりまく熟年のオバサン。そう、ウチダは私にとってどんなオバサンであるべきかを身をもって示してくれる先輩オバサンである。その思いを強くしたのは彼の講演をちょろっと聴いた経験からである。彼の著作だけを愛していたときは、いくら彼がオバハン臭い書きかたをしていてもオトコ臭かったが、彼の講演やラジオトークを聴いてからは、そのお喋りがとても女性的で井戸端臭いことがわかって、ツボにはまってしまった、というか、私のウチダ偏愛史の新たなページを開いたというか。
それをあらためて裏づけるのが本書だ。
祝福したい。あなたのこともあなたのこともあなたのことも。
地球史上最低最悪じゃないのこの男、てな男に対しても、人類史上最低最悪の社会人じゃないのこの女、てな取引先の担当者に対しても、彼らの生に幸あれと願わずにいられない。
みみずだっておけらだってあめんぼだってみんなみんな生きているんだ友達なんだ。
ウチダ自身がブログかなんかで紹介していた、茂木氏の書評をコピペする。茂木健一郎は嫌いだが、この文章はいい。こういう出来事に遇うと、えらいぞモギ、と祝福を送りたくなる。一生愛し愛され抜ける人に会うことはなかなかないのかもしれないが、人を愛することそのものはさほど難しくないと思うのである。
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波 2011年12月号より
呪いと祝福
茂木健一郎
 内田樹さんを評するのに、御自身がよく使われる言葉以上に的確な表現が見つからない。「その人が、何を教えてくれるのか判然とはしないけれども、なぜか慕われる人」。私たちにとっての「先生」とは、そんな存在だと内田さんは繰り返し書かれる。私にとって、内田樹さんとは、まさにそんな「先生」である。
 内田さんの魅力は、総合的な人格に由来する。これまで生きてこられた履歴、考えてこられたこと、感じてこられたこと、すべてが相まって、「内田樹」という書き手から、私たちに向かって流れ出してくるものがある。

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