「和解」? 喜ぶべきことなのか 水俣(1)
2010-03-29


報道でご存じの方も多いだろうが、水俣病訴訟における和解が初めて成立した。わたしは裁判ごとに疎いので、「和解」と「妥協」と「譲歩」の違いがわからない。原告の患者会の主張が大きく認められての和解なら喜ぶべきなのだろうが。

藤原書店の『環』という季刊誌を創刊からずっと購読してきたが、この冬号で40号に達した。つまり10年購読してきたことになる。これを機に、更新をやめた。理由は、ちまちまといろいろあるが、大きな理由の一つは、自分の中でひと通り水俣病に関するおさらいが済んだような気になったからである。『環』の購読はいわば、わたしにとっては水俣病との偶然の再会だった。『環』には創刊号から石牟礼道子の句が掲載されていて、忘れてしまっていたこの公害という名の社会犯罪についての再勉強へとわたしを駆り立てたのだ。ウチには石牟礼道子の文庫本『苦海浄土』があった。根気がなくて読まずに放置していたその本を再読し(とはいえ、ちっとも前に進めなかったが)、関連図書を少しずつ渉猟(図書館で、だけど)しながら、わずかずつでも水俣病にかんする知識をもう少し深めようと努めてきた。
わたしにとって水俣病は遠い地で起こった可哀想な出来事だった。自分の住む街は自然には乏しいが、その一方で公害とも無縁だった。幼少の頃は水俣病という言葉が連日ブラウン管や新聞紙上を賑わしてもいたし、小学校の社会科の授業にも用語として出てきたように記憶している。ただ、わたしたちは、事実の重大さは何もわかっていなかった。チッソという会社が毒を海に流したせいで奇形児がたくさん生まれた、という程度のもので、無遠慮で礼儀知らずで口の悪い小学生は、級友と悪口の応酬をする際に「チッソ」などという言葉を使って相手を罵ったりした。しかし、そんな「流行」はすぐに廃れる。報道されなければ、水俣病は、遠方にいる者にとっては、たんなる時事用語、歴史用語でしかなかった。

『環』における石牟礼道子の句はいつも水俣を詠んでいる。毎号、鶴見和子の短歌と石牟礼道子の句が掲載されたが、どちらかというと政治に斬り込むタイプの鶴見和子の歌のほうがわたしは好きであった。というよりも、石牟礼道子の句は、その5・7・5が背負わされているものが大き過ぎるように思えて、正視できなかったといっていい。

『環』を定期購読して五年くらい経った頃、水俣病認定50周年とやらで大特集が組まれた。この年、同様に50年を記念した多くの図書が刊行されたようだ。それらを一望して見えたのは「終わっていない」という事実だった。

水俣病は「問題」や「訴訟」といった熟語とくっつけて呼称される以前に、チッソという一企業が起こした犯罪であり、県や国はその共犯なのである。50年以上経ってしまって、このことを当事者も傍観者もみな、忘れてしまっている。


《水俣病問題への取り組みについて
水俣病問題は、当社が起こしました極めて残念な、不本意な事件であり、これにより認定患者の方々はもとより、地域社会に対しましても大変なご迷惑をおかけしており、衷心よりお詫び申し上げます。》

「お詫び」しているように見えて、実は、「認定患者」以外は患者とは認めないし、補償の対象でもないし、詫びる必要はないとの思惑が見える。

《当社は、これまで認定患者の方々に対しましては、1973年の協定により継続的に補償を実行しており、非認定者の方々(公的機関により水俣病患者ではないとされた方及び審査の結論が出ていない方)に対しましては、1996年の全面解決策による和解にて解決を図りました。しかし、その後2004年10月の関西訴訟最高裁判決の後、新たな訴訟や認定申請者が急増するなど水俣病紛争が再燃し、混迷の度を深めております。》

「水俣病紛争が再燃」だなんて、まるでよそごとみたいな口ぶりだ。誰かさんが責任をいつまで経っても認めてこなかったから水俣と社会が「混迷の度を深めて」いるのに、自分たちばかりが困っているような書きかたである。


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