忘却力がすこぶる発達している私の場合は叶わぬ願いだろうがこんなメタボなら一度なってダイエットに苦しんでみたいと思ったの巻
2009-05-08


『忘却の力 創造の再発見』
外山滋比古 著
みすず書房(2008年)


こんなメタボというのは「知識メタボリック症候群」のことである。著者は、知識が多ければ多いほどよいとする現代社会の知識偏重傾向を憂いている。過ぎたるはなお及ばざるが如し、は何にでもあてはまるとは思うが、知識の量にもあてはまる、という話である。

たぶん、人それぞれ、蓄えるにふさわしい適切な知識の量というものがあるのだろう。だからたぶん、キャパいっぱいになると、別にたいして努力しなくてもどんどん忘れていく。と、私は思っているが、それはおそらく私の忘却する力がたいへん健全に働いているからそうなのであって、やはり病的に忘れることのできない人、というのもあるかもしれない。覚えたこと全部、けっして排出せずに脳裏に刻んだまま生き続ける。すごいと思うけどちょっと怖い。しんどいだろうなとも思う。どっかの時点で頭なり心なりが破綻して、体に支障をきたす。
……体に支障をきたすほど、ものごと覚えてみたいもんだ(笑)

親友の小百合は美術学生だった頃のあんなことこんなことも、彼女が結婚する前後のあんなことこんなことも、お互いオバサンになってからもあんなこんな楽しいことあったね、ということも、何も覚えていない。あんたさ、あたしたちはなぜに友達であり続けていると思ってんのよ、何ゆえに今もこうして会ってるのよと追及したくなるところだが、理屈ではなく、要するに、あたしたちってお互いとても大事な存在よね、という本質的な認識だけはしっかり刷り込まれ、失うことなくこれまで生きてきたので私たちは親友で居続けているというわけである。互いの間に起こったことすべてを欠かしたことのない日報のように緻密にびっしりと覚えていたら、とっくに絶交していたのではなかろうか。

本書は外山氏のエッセイ集である。どこかに連載していたものをまとめたものだ。短いものが50編、収められている。面白くて抱腹絶倒とか、ああそうだったのねとびっくりしたり、そのとおりだとすんごく納得するとかいったことはあまりなくて、「あら、そうかもしれないわね」というような軽い同感をみとめるという感じだ。思想界の御大に対して「軽い同感」だなんてなんとずうずうしい。でも、鶴見俊輔もそうだけど、もはや悟りを開いたくらいの境地にある知識人の文章は、難解なところが全然ないと同時に「もういつお迎えが来てもいいけんね」みたいな爽やかな諦念がにじみ出ていて、とても読みやすいのである。これまでにその著作をずっと読んできているとか、何らかの深い思い入れを著者に対してもっていたら、こうしたエッセイ集を読むときにも感慨深いところがあるのかもしれないけど、私は外山さんに対して何も先入観を持っていなかったので、そうね、そうね、ホントね、オジサマのおっしゃるとおりよ、てな感じで読んでしまった。

冒頭の一節、「ことばの殻」では、現代の言葉偏重主義とでもいうような傾向に警鐘を鳴らす。もうずっと前に図書館で借りて読んだので、「知識メタボ」という語がこの項で出てたかどうか忘れちゃったが、考え方は同じである。「言葉の力」とか「国語力」とかいっちゃって、なんでもかんでも言葉まずありき、みたいになっているのはよろしくないというのである。
外山さんはそもそも英文学や言語学を専門とされているそうなので、言葉についてさんざん研究してきた人であろうから、そういう人がいうんだからよっぽど「偏重」に見えるのあろうと思う。


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