[画像]
素直だ。感動した。読まれなければ話にならないのだ、書く者にとって。
『ゴールデンボールサポーター』
長原秋夫 詩
ラブユー出版(2008年)
《他人なら面と向かうところだが/女は知り合いで/ギターのような体形をしている》(「うしろだけを」6ページ)
《他人の問題なら/気持ちの問題として/蔵からだすのもやぶさかではない》(「かげ」15ページ)
自分の命より大事なものは、と訊かれたら「私の娘」と答えるに決まっている。その答えにいくらかの矛盾があるとしても、ナルシストでありかつ自虐的な、すなわち簡単にいえばジコチューの私が自分より優位に置くものといえば娘しかないのである。親も兄弟も大切だし、甥っ子はいつだって抱きしめたいくらい可愛いし、いざというときに頼りになる伯父伯母たちはじめ親戚の面々もとても重要な人々である。けれど、その「娘」と「親も……(以下の面々)」との間には大きな距離があり、なおかつ、幅の広い河のように横たわる、大きなものがあるのである。
友情である。
友達は、たくさんいる。隣近所に住み、幼少時から今もつきあいのある幼馴染み、学生時代の仲間、かつての仕事仲間。そして不思議な縁で結びついた、この歳になったからこそできた友達。
友情は、かけがえがない。しかし人は、恋人ができたり子どもができたりするといったん友情を見えないところに片づけてしまいがちだ。私も例外ではなく、命より大事な娘のために、娘以外のあらゆる人々に対し「知らん顔」と「聞かなかったふり」をきめこんで、不義理を続けてきた。
にもかかわらず友情はそこに在り、私が気づくのを待っている。
友情という得体の知れない、変幻自在の、軽重不明の、両性具有の精神性に、今は感謝をするしかない。私が生きている理由は、100%中99%はやはり娘にあるが、のこり1%のうちのさらに99.999%は友情にある。親兄弟親戚縁者一同、ゴメンナサイ。
他人とは誰なのだろう。
いまうんぬんした子どもだの親だの、友達だのとは一線を引かれる「他人」とは。
他人は他人であるからこそ、「私」に重い、あるいは強い働きかけをすることがある。
(ここでの「他人」は哲学でいうときの「他者」とは含有する意味が異なります)
他人だからその言葉の上っ面だけをいいように解釈して悦に入る、ときもある。
他人だからその視線に容赦ないものを感じて逃げ場を失くして立ちすくむ、ことがある。
詩人・長原秋夫は「他人」への視線が卓越して優しい人である。「視線が優しい」を強調するのに「卓越して」はおかしいかもしれない。「視線が優しい」のは性格であって能力ではないのだから。それでもそう形容したいほど、彼の他人へのまなざしは愛に満ち、対象の(普段は見えない)美点をあぶりだして余りある。なのにそのまなざしは強くはない。長くもない。たぶん、こっそりチラ見するだけである。それでもその視線は「他人」の美しさや賢者ぶりを捉えて離さない。これを視線が卓越して優しい人であるといわずしてなんという。
冒頭に抜き出した数行は、直接「他人」を表象してはいないが、いつものまなざしの優しさあってこその「他人」への愛が表出している。
他人だから許せる。他人だからオッケーなのよ(身内ならそうはいかないのよ)。
別の詩篇では「他人」を「ひと」と書いている。
《ふくらみに/手をちかづけるのは/知らないひと》(「親戚」74ページ)
《夜とはいえ/灯のもと/ひとの言葉が/こんなにもやすやすと/浸透する》(「朝」99~100ページ)