では、死んだものは……?
2008-10-20


『イリーナとふしぎな木馬』
マグダレン・ナブ著 立石めぐみ訳 酒井信義絵
福音館書店 世界傑作童話シリーズ(1995年)


短めの童話を立て続けに読んでいる。
つくづく、わたしにはこのくらいの読み物がいちばん肌にしっくり来るなあと思うのである。小難しい本や理屈っぽい本は基本、脳を鍛えるため(だけ)に読んでいる。その類の本で皮膚感覚に逆らわない「しっくりくる感じ」を味わえるのは愛するウチダの本だけである。またまたもう、という人がいるかもしれないが、わたしの場合、ホントなの。

ふつうは小学校高学年くらいを意識した小説や童話などが、自分の脈拍の速度にも合い、狭小な視野にもぴったりはまり、粗い思考回路にも潤沢に流れてくれるのである。たぶん、わたし自身がその年頃にあまり童話や小説などの本を読んでいなかったので、身体の中のどこかにある、「そういうもの」で「満たされるべき部分」が長いあいだ枯渇していて、ほしがっていたところに、今、大人になってからとはいえ、こうしてやたら注ぎ込んでやるから喜んでいるのであろう。
たいへん心地よいのである。

イリーナはクリスマスが好きではない。
イリーナの家は忙しい農家。学校からも遠いので、一緒に帰る友達も遊ぶ約束をする友達もいない。いたとしてもそれはイリーナには許されないこと。帰れば両親の手伝いが山のように待っている。
町には家庭で必要なものだけを買いに来る。飾りつけた店の前であれがほしい、これがほしいとねだるよその子を見ても、けっして同じ振る舞いは見せないイリーナ。
親にほしいものをいえない、というよりは、自分にとってほしいものがなんなのか、それすら見つからない、イリーナ。
ところが、薄暗い古道具屋に、ほこりだらけの木馬が見える。他の古道具に押し潰されそうになっている木馬……生まれて初めてイリーナは「ほしい」と感じ、両親に「買って」とねだる。
まるで本物の馬の世話をするように納屋に藁を敷き、木馬の居場所を作り、毛並みを整えてやるように、ほこりを払ってみがいていく。するとある夜……。

古道具屋の主人である「おじいちゃん」はイリーナにこういう。
「この世に生きているものはすべて、おまえのものなんかじゃない。そんなことを信じていたら、いつかつらい涙を流すことになるよ」

生きているものには、それ自身の生きる「生」があり、それは「誰か」や「どこか」に属するものではけっしてない、という意味だ。木馬がイリーナの「もの」ではないように、イリーナも両親のものではない。だからイリーナは、ただ言いつけだけを守って親に従って心を開かずにいるのをやめて、自己主張を始める。木馬がそうして見せたように。

先日出奔したイモリのヒデヨシに思いを馳せた(あ、話はそこへ行きますか、といわずに聴いてくれ。笑)。
わたしが世話をしているものはわたしのもの、と人は何でも思いがちだが、そうではないことをヒデヨシは身をもって教えてくれたのである。
娘はもちろん、猫だって、カエルだって。
あるいはこれから世話をすることになるやもしれぬ老親だって、支配権や所有権は、わたしにあるわけはない。

だが死んだらどうなのだろう?
死んでしまったものたちについては、「わたしのもの」と思ってもよくないか?
せめて記憶の中でだけでも、わたしだけのものであってほしい。
そう思うのは罪作りだろうか、罰当たりだろうか。
死んでしまったものたちの魂はそれこそなにものにも束縛されず自由であるだろうから、それらの記憶を「わたしのもの」として留める事を許してほしい。

(だから緒方拳も峰岸徹もフィリップ・ノワレもわたしのものと思いたい。あ、そこへ行きますか、と軽蔑しないでください)

本書では、濃度の低い水彩絵の具をたっぷり筆に含ませてぽとぽと落としただけのような絵が、読者の想像を邪魔することなく、冬の朝日のように控えめな光を、物語に射している。
[こども]

コメント(全15件)


記事を書く
powered by ASAHIネット