2008-06-16
恭子はどうしても水無月を食べることができなかった。
呉服を商う恭子の家は代々、町の有力者として采配を振るっているため、この界隈の老舗菓子屋から献菓が奉仕されることたびたびである。理由づけは何であれ、お菓子をいただくのは嬉しかった。恭子の知る限り、献菓を家族で平らげることはほとんどなかった。お客様、得意先、職人さん、仕入れ業者らに出すお茶菓子として消えていく。ところが、水無月は恭子の両親も祖父母も大好きだったため、客には供されずに台所に仕舞われた。
梅雨には、あちらからこちらから水無月が届けられた。日を置くと固くなってしまうので、家族はみんな盛んに食べた。
「ほれ、恭子もおあがり」
祖母は必ずそういって、とびきり美味しい玉露を丁寧に淹れてくれて、水無月にくろもじを添え恭子の前に差し出してくれた。恭子が食べないとわかっていても、そうするのだ。
でも恭子は、おばあちゃんが淹れてくれる玉露は大好きだけど、水無月は食べられなかった。小豆は好きだから、いちど、上に載った小豆を一粒ずつ、くろもじでつついて食べようとしたら、「そんな食べ方するもんじゃないっ」と家族全員による音声多重カミナリが落ちた。以来、もう水無月なんか食べるもんか、と思ってきた。水無月なんかなくったって困らないもん。和三盆や蕨餅、羊羹や干菓子は好きだったのだから。
呉服産業が斜陽になり、町全体も不景気になって、恭子の家も生計を維持するのが精一杯だった。近所づきあいは希薄になり、廃業する老舗も出てきた。献菓の習慣など、いつのまにかなくなった。
それでも恭子の家では、六月には必ず水無月をいただいた。ある年の六月、界隈でたった一軒残った和菓子屋に祖母が水無月を買いに出かけたら、そのあとすぐに強い雨が落ちてきた。恭子が傘を持ってかどへ出ると、祖母がシルバーカーの上に水無月の包みをちょんと載せ、よその家の軒で雨宿りをしていた。その前を、酒屋の玄さんや袋物屋の健ちゃんが大きな傘を差してすうっと通り過ぎる。恭子の小さい頃、両親は近所のお年寄りを見たら必ず声をかけ手を引いた。知らない人でも傘を貸した。たまらなくなって、恭子は祖母に駆け寄った。傘の中に祖母を迎え入れて、早う水無月食べたいわあといった。ほんまかいな、と祖母は笑った。
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